「憐れみの基準」

2017年10月8日(聖霊降臨後第18主日)

マタイによる福音書18章21節~35節

 

「痛みを感じて、その奴隷の主人は彼を自由にして、負債を赦してやった、彼に。」と記されている。負債の赦しは、自由を与えることであり、その根拠は王である主人が痛みを感じることだと言われている。この痛みを感じること、はらわたを痛めることを「憐れみ」と言う。主人と奴隷との決算の関係は、事務的な関係であり、負債は支払わなければならないものとして厳然とある。しかし、それを払うことができない奴隷。持っているもの、家族も家財もすべてを売り払って、負債を払うようにというのがお互いの取り決めである。これを清算、決算と言う。このギリシア語はシュンハイローという言葉で、共に出し合うという意味である。同じ価値のものを共に出し合って、ゼロにすること、それが清算である。従って、負債を清算するには、同じ価値のものを奴隷が出さなければならない。しかし、出せない。そこで、主人は奴隷の苦しい状況に痛みを感じ、負債を赦してやるのである。

この赦しは、同じ価値を与え合うことではなく、まったく別次元に移行することである。主人は何ももらっていない。奴隷も何も出していない。主人が一方的に、痛みを感じて、赦す。従って、痛みを感じているのは主人であり、負債を赦すということは奴隷の痛みを主人が負うということである。その痛みを負う主人の痛みを、奴隷は知らない。これが問題なのである。

さて、先の清算という事柄が、同じ価値のものを共に出し合うことであったのだから、赦しという別次元の関係に移行した主人と奴隷との間にも、別次元における同じ価値の関係が生じる。それゆえに、主人は奴隷に自分と同じように、他者の痛みを自分の痛みとして負うという同じ価値のものを出して欲しいのである。いや、欲しいというよりも、当然出すであろうと考えたのである。ところが、奴隷の方は、自分と同じ奴隷に対して、自分との間に負っている負債を取り消してやるどころか、獄に投げ入れてしまう。これに、心を痛めたのは、他の奴隷であった。事の次第を主人に報告したところ、主人は怒って、最初の奴隷を痛めつける者たちに引き渡してしまったと語られている。獄吏というのは、原文では痛めつける者という意味である。つまり、最初の奴隷は痛みを感じなければならないということである。彼の痛みを感じた主人と同じように、彼も共に奴隷である者の痛みを感じなければならないということを教えるために、主人は痛めつける者たちに引き渡したと言うのである。

人間は痛みを感じる必要があるのだ。罪赦された者は、罪赦し給うたお方の痛みと同じ痛みを感じることはできないであろうが、自らの痛みをとおして、キリストの痛みを生きるのである。マルティン・ルターは、1519年の「キリストの聖なる受難の考察についての説教」においてこう語っている。キリストを十字架に架けたのが、自分自身の罪であることを受け取った者は、続いて自らの痛みをこのように生きると言う。「あなたが不幸や病気に苦しめられるときには、キリストのいばらの冠や釘に比べて、それがいかに取るに足りないものであるかを思うが良い。あなたが不本意ながら何かをなさねばならないとき、あるいはなさずにおかねばならないときには、キリストが縄目を受けて引き回されたことを思い起こすが良い。高慢があなたを試みるときには、あなたの主が嘲弄され、盗人たちとともにいやしめられたことを見るが良い。」などと、語っている。こうして、我々はキリストの受難において多くの慰めを得、力を得て、キリストに従う者とされるのである。

イエスがこのたとえを語られたのは、ペトロが何回赦せば良いのかと問うたことに対してであった。赦しとは、通常の関係とは別次元の関係に入ることであり、何回赦せば良いかと問うこと自体が赦しに入っていないということなのである。別次元なので、赦しは数えられない。別次元なので、赦しは赦されるべき相手に与えられるのではない。赦されない相手だからこそ赦しが必要なのである。赦す価値がある相手を赦す場合は、同じ価値を交換しているだけなのだから、別次元には入っていない。赦す価値がない相手、赦せない相手だからこそ、赦すということが成立するのである。

我々人間が神によって赦されるということは、我々が赦される価値があるからではない。どうしようもなく赦されざる人間であるにも関わらず、神は憐れみの基準において、我々を赦し給う。これは、論理的ではない基準である。憐れに思う。痛みを感じる。辛いだろうと思いやる。この基準においては、憐れみだけが基準なのだから、神が憐れみを抱くことだけが基準である。それゆえに、人間の側から神に憐れみを抱いていただくような交換条件を持ち出すことはできない。あくまで、神ご自身の憐れみのみがこの基準となるのである。それゆえに、我々は憐れんでくださいと祈るしかない。憐れんでいただくに値する者ではありませんが、憐れんでくださいと祈る。それだけが我々人間ができることである。そして、天の国とはそのような国なのであるとイエスは言う。このたとえは、赦しの数について問われて、語られた。赦しの数ではなく、赦しの基準とは何であるかをイエスはこのたとえで語った。それは「天の国」の基準である。天の国の基準は、憐れみの基準なのだ。つまり、天の父が憐れみをもって我々を迎え入れ給う国が天の国なのである。

そこに入るには、憐れみを恵みとしていただく信仰のみが必要なのである。憐れみを受けるに値しない自らを認め、ただ憐れみ給うお方に身を委ね、すべてを恵みとしていただくのである。これが天の国の基準、憐れみの基準、天の父のみこころなのである。ところが、最初の奴隷は、外面的な負債の赦しのみを受けた。負債を赦してくださった主人の憐れみを受け取ることがなかった。主人の内面の基準に従うことがなかった。それゆえに、彼は主人の憐れみを受け取ってはいなかったのである。受け取っていなかったがゆえに、自分と同じ境遇にある奴隷を思いやることもできず、憐れみの基準に従うことができなかった。それゆえに、自分が適用した基準に従って、負債を返すまで、痛めつけられることになるのである。これは、自らが自らに適用した基準なのである。自分の量る秤で量り与えられるということである。

最初の奴隷が主人の憐れみを受け取ることができなかったのは、どうしてなのか。彼が自分の成果として赦しを獲得したかのように思ったからであろうか。彼は、赦されざる者として、自らを認識していなかった、というわけではないかも知れない。しかし、最終的にそうなってしまった。主人が痛みを感じて、憐れんでくださったことを受け取ることができなかった。この痛みを感じてくださるお方の心に合わされる者が合わされるのであり、受け取ろうとしても受け取ることができないのである。ここに信仰の困難がある。

先のルターの言葉においても、あのように感じようとすることでは、感じることはできない。それでは、思い込みでしかない。感ずべき者が感じ、受け取るべき者が受け取る。受け取ることができない者もいるということである。それが今日のたとえの最初の奴隷なのである。そこに救いはないと思えてしまう。人間が獲得することができない救いは、人間が如何にすれば獲得できるかという方法によっては獲得できない。あくまで神の恵み、神の憐れみ。出エジプト記33章19節で神ヤーウェが言うとおり「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」ということである。この憐れみの基準は、分かる者にしか分からない基準である。受け取る者は受け取ることができるというだけである。受け取ることができないからと言って、どうやったら受け取ることができるかと躍起になっても無駄なのだ。憐れみは憐れみ。恵みは恵み。ただ、神の独占活動によって与えられ、受け取られるものである。我々は、この恵みに入れられていることを改めて受け取り、この恵みから抜け出してしまわないようにと主に祈ろう。あなたは憐れみの基準の上に立てられ、憐れむ者として生かされていくのだ。

祈ります。

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