「善との調和」

2017年10月15日(聖霊降臨後第19主日)

マタイによる福音書20章1節~16節

 

「働き人たちと共に、一日デナリオンで、共に声を出して、彼は派遣した、彼らを、彼のぶどう園へ」と言われている。「約束で」と新共同訳で訳されている言葉は「共に声を出す」という言葉で、調和を意味する。それゆえに、合意でもあり、「約束で」と訳されている。この言葉は、互いに声を出し合って、調和することである。つまり、一つの声になることである。マタイによる福音書18章19節で「心を一つにして」と新共同訳で訳されている言葉と同じである。

共に声を出して、調和したのではあるが、働き人たちは雇い主である主人の意志に調和したのであり、主人が働き人たちに調和したのではない。ここにおける調和は、主人の意志への調和である。それゆえに、調和した時点で、働き人たちは主人の意志を尊重したはずである。ところが、そうではない事態が生じた。自分たちの働いた時間と労力を他の働き人たちの時間と労力と比較することにおいて、不満が生じるという事態である。この事態を招いたのは、主人の善き意志、善である。不満を抱く働き人たちに主人が言う言葉には、この善が語られている。「あるいは、あなたの目が悪であるのか、わたしが善であるがゆえに」と、主人は言う。新共同訳では「わたしの気前の良さをねたむのか」と訳されているが、軽薄な訳である。善である主人のゆえに、最初の働き人の目が悪であるようになる。これはどうしてなのだろうか。

我々の目が悪であるということは、悪である目で物事を見て、善を悪と認識し、悪を善と認識することになるということであろうか。この場合、事柄自体の善は認識されないで、自分の目にとっての善だけしか認識されない。これが最初に雇われた人の不満に現れているのである。

悪しき目がすべてを自分に引き寄せてしまう。この悪しき目は、アダムとエヴァの堕罪においても働いている目である。これを単に妬みというような軽薄な感情として捉えるよりも、我々人間の身体に巣くっている抗いがたい罪の働きとして捉えるべきである。主人である神が善であるがゆえに、我々人間の目が悪であるという事態が、我々人間の罪の状態なのである。主人の善に調和できないことが我々人間の罪である。なぜなら、アダムとエヴァの堕罪においても、自分たちの善が優先されているからである。罪というものは、主人である神の意志を善として人間が調和するのではなく、主人の善が自分の善を妨げると対抗することである。そこから、主人を自分の善に調和させようとすることに至る。主人は、働き人に従わなければならないということになる。これでは本末転倒である。しかし、人間はこの転倒した思考を当然と考えてしまう。自分の目からは転倒していないと思い込むので、主人の善の絶対性を理解しないのである。

最初の働き人は、主人の意志に調和したはずであった。ところが、そこに他者との比較という事柄が入り込んできた。これがサタンの働きである。比較することによって、最初の調和が崩れてしまう。調和していたことだけを見ていれば良かったのだが、調和を見失って、他者と自分を比較するところに立った。それゆえに、調和なき世界を生きることになった。その世界は、自分の意志に他者を調和させる世界。神さえも調和させようとする世界。自分が他者よりも良いものであると認めさせようとする世界。ここにおいて、世界は混乱に陥るのである。

世界の混乱は、他者を排斥し、批判し、貶めて、自分を持ち上げるところに生じる。このような世界のただ中に、神はキリストをお遣わしになった。キリストが最低最悪の十字架刑に処せられることをとおして、最低最悪のレベルに神が降り給うた。ここにおいては、比較など生じようはずはない。キリストと一つとなる存在は、比較を離れ、最低最悪の状態において、神に従う。誰が一番であるかとは考えない。誰が評価されるかとも考えない。誰にも評価されなくとも、わたしは神の意志に従うと生きる。これがキリストが十字架をとおして我々に語っておられる言葉である。我々人間が、神の善と調和して生きるために、キリストは来てくださった。

神の善との調和は、わたしの善を放棄することである。わたしの善が重要なのではなく、神の善が重要なのだと生きることである。そこでは、わたしにとって悪であると思える事柄さえも、善へと働いていくのである。わたしにとって善であることだけに汲汲としているならば、わたしにとっての善だけの世界を構築できるかに思える。しかし、そこでは全体の善は失われ、一人ひとりの欲望のみが争い合う世界が現出する。こうして、わたしにとっての善を追求する存在は、世界にとっての悪を蔓延させることになるのである。一人ひとりの人間の悪が蔓延することになるのである。

我々人間は、人間的善、私的善を求めてしまう。それ自体が悪であるということを弁えることなく、すべてを自分に引き寄せてしまう。そうして、善が実現すると思い込む。その果てに、混乱と争いが渦巻く世界になる。今も、渦巻いている。そこから抜け出す術を持たず、自分だけが抜けだそうと思うことさえも、同じ穴のむじなであることを知らない。混乱を来たらす存在は、己の悪を知らないのである。主人が善であるがゆえに、自らの目が悪であるということを知らない罪人が混乱を来たらす。むしろ、そのような人間がいない方が平和なのに。それでもなお、そのような人間が存在することも神の世界なのである。人間の悪が蔓延していても、神の世界は神の善に従って実現していく。人間が悪の目で見ようとも、神の世界は善である。絶対的善である。ここに我々人間の救いがあるのだ。人間が如何に罪深く、すべてを自分に引き寄せようとも、最終的に、神の善と調和させられる世界が来たるからである。

最初の働き人が主人に不満をぶつけようとも、主人の善は変わりなく遂行される。妨げようとする存在があっても、遂行される。自分の意志に神の意志を従わせようとしてもなお、神の意志が最終的に勝利する。これこそが、我々人間の救いなのである。神の意志のみが絶対的善であることが救いである。この救いを実現し、宣言しているのは、キリストの十字架である。キリストの十字架において、人間的な思惑、人間的な不満、人間的な善が罪として断罪され、神の意志が実現している。十字架が語っている言葉を聞くことによって、我々は神の意志の絶対的必然性を知るのである。その前にひれ伏す信仰を起こされた者が、神の意志、神の善との調和を生きる者とされる。神は、ご自身の独占活動として我々人間を救い給う。人間的な善は駆逐され、神の善のみが真実に善である世界が開かれる。この世界に入れられるために、我々は洗礼を受けた。洗礼をとおして、キリストと共に死に、神の善との調和に入れられた。神の善なる世界こそ、我々が調和させられる世界である。我々が神に従わせられる世界である。そのとき、我々は全面的に神のものとして生きるであろう。

ここには人間の意志も、行為も作用することなく、ただ神の意志のみが働き給う。神の善のみが働き給う。神の憐れみのみが支配し給う。この世界を生きるようにと、キリストは我々をご自分のものとしてくださった。罪深い自分を知る者だけが、真実に神の善に従い、神の善なる意志に調和して、生きるようになるであろう。あなたは、善なる神の意志によって、今あるところに置かれている。今がいかに不満に満ちているとしても、そこに神の善はあるのだ。不満を捨てることが可能なる道が開かれているのだ。キリストの十字架を見上げよう。キリストは、十字架の上で我々のために苦しみを負ってくださった。このお方の苦難によって、我々は神の善が実現することを知ることができたのだ。このお方と一ついのちとなって、自分の十字架を取って、生きて行こう。あなたは、キリストのもの、神のもの、神の善に生きるべく召された者。

一人ひとりのいのちが、神の善きものに満たされ、愛に包まれ、善きことのみの世界を信頼して、生きていけますように。神はあなたをご自身の善なる世界に召しておられる。

祈ります。

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