「神の時」

2017年10月22日(聖霊降臨後第20主日)

マタイによる福音書21章33節~44節

 

「実のカイロスが近づいたとき、彼は派遣した、彼の奴隷たちを、彼の農夫たちのところへ、彼の実を取るために。」と言われている。実が実るためには、相応しいときがある。それがカイロスであり、そのときに叶って、良き実が実る。自然の実は、神の時に実るのであって、自分勝手に実ることはない。神が相応しいとしたときに実るのが自然である。それは神の支配に従って実るのであり、神の支配に従わない実などというものは一つもない。この神が定め給い、予知し給う相応しいときをカイロスと言う。それは神が実らせるときである。しかし、農夫たちは、そのときを自分たちの判断に従って、自分たちのために実りを確保しようと画策した。神の時を捨てて、自分たちのときを確保し、動かそうとした。これが今日、語られているたとえである。

農夫たちのことを歌った詩編として、詩編118編22節、23節が引用されているが、なごや希望教会年間主題聖句の前節の言葉である。「捨てた」という言葉は「吟味して捨てた」という意味である。簡単に捨てたのではなく、良く良く吟味して捨てたのである。これは、イエスのたとえでも同じである。農夫たちは、良く良く吟味して主人の奴隷たちを殺害し、石打ちにしたのだ。さらに、主人の独り息子を良く良く考えて、殺害し、相続財産を我が物としようとしたのである。彼らは、衝動的に殺害したわけではない。良く良く考え、吟味し、計画し、殺害したのだ。これが罪人の在り方である。

罪人は、良く考えて、罪を犯す。衝動的な罪というものは実はないのである。衝動的に見えるだけであって、その人のうちでは良く良く吟味され、これが自分にとって一番良いと思えることを選択しているのである。それゆえに、罪は人間の吟味によって生じるのである。それが、アダムとエヴァの堕罪においても起こっている。彼らは、神の言を吟味するようにヘビに導かれた。彼らは神の言を吟味して、神の言に反することを選択した。アダムとエヴァが神のようになっては困ると考えて、神が禁止を語ったのだと判断して、禁止された木の実を食べたのである。従って、彼らは神の言を良く良く吟味している。吟味した結果、神の言を捨てて、自分のために選択した、善悪の知識の木から取って食べることを。従って、善悪の知識を得ることによって、アダムとエヴァは自分のために吟味し、選択する道を歩み始めたのである。これが堕罪であり、神への反抗であり、神の言を捨てることであった。イエスのたとえの農夫たちは、これと同じことを行っている。

結局、人間は罪を犯すことにおいて、最初の堕罪を繰り返している。アダムとエヴァの堕罪を受け継いでいるということ、原罪とはそういうことなのだ。このような人間が、自分から良くなることなどあり得ない。自分から神に従うようになることはあり得ない。最初の堕罪以来、我々人間は自分のためにしか生きることができなくなっているのである。このような人間が如何にして、神の意志に従うであろうか。どこまでも従わないままに生きる。それが人間なのである。それなのに、神は我が息子ならば敬ってくれるであろうとあえてキリストを送り給うた。ところが、そんなはずはないのだ。最初から神を敬ってはいないのだから、息子を敬うはずもない。神とは如何にお人好しであろうか。神のお人好しの所為で、キリストは殺害されたのである。愚かな父である神のゆえに、キリストは殺害された。しかし、その父こそがキリストの父であり、そうでなければキリストを送り給うことはなかったのである。そうでなければ、神は我々人間を滅ぼしてしまっていたであろう。しかし、そうできなかった。

それは、ノアの箱船のときから、神がご自身に言い聞かせておられたことである。創世記8章21節にはこう語られている。「人間のゆえに、土を打つことはもはやしない。人間の心の像は若い頃から悪である。もはや生き物すべてを打つことはしない、わたしが行ったようには」と。神は、人間が悪であることを徹底的に認識している。良くなるはずがないことも認識している。それなのに、もはや打つことはしないおっしゃる。しかし、それでは人間は神に背いたままである。神に反して生き続けることになる。それゆえに、神は預言者たちを幾度となく派遣した。預言者は、神の意志をイスラエルの民に伝えた。神の意志を伝えれば、悔い改める者も生まれるであろうと神は辛抱強く預言者たちを派遣し続けた。そのたびに、預言者たちは人々から馬鹿にされ、打たれ、殺害される者もあった。これが、イエスのたとえで語られていることである。人間は、神の預言者たちをことごとく蔑ろにして、殺害してきたのだ。それでもなお、神は派遣し続けた。そして、最終的に、独り子なる神イエス・キリストを派遣し給うたのである。

これが、イエスのたとえで語られていることであるが、その結末はご自身の死を語っている。これが人間の現実であることをイエスはご存知である。ご自身が父の独り子として語ってもなお、人間たちは受け入れることなく、従うことなく、イエスを殺害するであろうことをご存知なのである。それが人間の必然だからである。人間が罪人であることの必然がキリストの十字架なのである。これを避けることはできない。イエスは、ご自身の十字架刑をこのとき予知し給い、絶対的必然性によってなる出来事として認識しておられた。このたとえの結末は、イスラエルの民が神の国を受け継ぐことはなく、新たな民に与えられるということである。この新たな民こそ、新約の民であるキリストの教会である。その民は、神の時に相応しく生きる。神が与え給うとき、神が造り給うとき、神が為し給う業をことごとく受け入れ、従う民として生きる。その民にとっては、すべてが神の必然性によって生じる。神が為し給うことがすべてである。自らに悪の如く思えることであろうとも神の御業である。その御業をありのままに受け入れるとき、すべては善きものとして完成に向かう。使徒パウロがローマの信徒への手紙8章28節で言うとおり、すべてのことが共に働いて、益となるのである。このような信仰に生きるとき、我々は如何なることにおいても、絶望すること無く、希望をもって生きることができる。起こったことは起こったこと。それが悪であるか善であるかは、我々が判断することではない。神が起こし給うたことであれば、すべては善である。いや、この世界には善なる神の意志のみがなっていくのである。たとえ、悪魔が悪を促し、誘ったとしても、その結果悪が行われたとしても、それでもなお神の意志はなっていく。悪魔の業も、最終的に神の意志に服せざるを得ないのである。それが神の国、神の支配なのである。

この神の支配によって、家を建てる者たちが吟味して捨てた石が隅の親石となるのである。我々人間には必要ではないと思われても、神の意志が必要とする石なのである。我々人間が判断する善と悪はすべて無効化され、神の善のみがなっていく世界。これこそが神の国、神の支配、神の意志の絶対的必然性の世界である。我々人間はこの世界に生かされていることを素直に受け入れなければならない。受け入れないならば、そこから自分で捨てられるのである。受け入れなければ、自分で出て行くのである。受け入れないことが、神を捨てることであり、神の意志を排除することであり、神の独り子を殺害することである。

イエスは、ご自身の十字架を見据えながら、このたとえを語り給うた。十字架が必然であることを受け入れながら語り給うた。十字架はそのような意味で、我々人間の罪をすべて受け入れ給う神の御業なのである。神ご自身が引き受けざるを得ないほどに、人間の本性が壊敗していること。それが、キリストの十字架を来たらせるのである。我々人間の本性の壊敗である罪が、キリストの十字架を起こした。この事実そのものを我々は受け入れなければならない。そこから、キリストの働きが我々のうちに行われるのである。

キリストは、ご自身を殺害したあなたのうちに働き給うお方。キリストを殺害したわたしのうちに生き給うお方。神の独り子のいのちがあなたのうちに生きて働くのだ、神の時に適って。祈ります。

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