「満たされる義」

2017年10月29日(宗教改革主日)

マタイによる福音書5章1節~6節

 

「義を飢え渇き求める者たちは幸いな者たち。なぜなら、彼らは満たされるであろうから。」とイエスは言う。義に飢えて、渇いて、義を求める者たちは、自らに義がないこと、自らが義に欠乏していることを知っている。さらに、自らが義を満たすことができないことを知っている。それゆえに、義を満たし給うお方に求める。その人たちは、そのお方から満たされるとイエスは言うのである。つまり、義は満たされるものであって、自らが義となるものではないとイエスは言うのだ。これが信仰によって義とされるということである。

500年前に、マルティン・ルターが再発見したのはこの福音である。当時の教会が教えていたのは、人間が義となって、神に認められるという教えであった。ルターも修道士となって、その教えに懸命に取り組み、苦しんだ。どれだけ努力しても、自らが義であるとは思えなかった。日毎に罪を犯している自分自身を見詰めるルターは、神に受け入れられるに相応しい自分自身となることは到底できないと絶望の淵に立たされた。その苦しみの中から、ルターは聖書を読んだ。

当時自らが教えられていたことと矛盾することが聖書には語られていた。詩編31編2節には「あなたの義によって、わたしを救ってください」とあった。神の義がわたしを救うというのである。神の義は、わたしを裁くのではなく、救うのだと歌われている。自分自身が義となることによって救われると教えられ、精進していたルターは、救われ難い自分に苦しんでいた。そこにおいて、この矛盾するみことばに出会った。神の義がわたしを救うとはどういうことであろうかとルターは悩んだ。しかし、聖書にはそう書いてある。聖書が神の言葉であり、過つはずはない。そうであれば、わたしが教えられていたことが過っていることになる。聖書が語るとおり、神の義がわたしを救うのであれば、わたしが義となり得なくとも、神の義がわたしを救うのである。神の義がわたしを救うのであれば、この詩編の作者のダビデのように、神に祈るしかない。わたし自身が義となることはできないのだから、神に祈る。その祈りを可能とするものこそが信仰なのである。神がご自身の義において、わたしを救い給うと信じるがゆえに、「あなたの義において、わたしを救ってください」と祈るのである。これが信仰であり、信仰によって、義とされるということだとルターは理解するようになったのである。

イエス・キリストが山上の説教で語っておられるのも、神が義を満たすということである。人間は、義を欠いていて、飢え、渇いている。飢え渇いている人間が義を満たし給うお方に祈り求める。そのとき、彼らは神によって義を満たされる。キリストは、こう語ったのである。キリストが語った人々は、キリストについてきた人たち。山の上までついてきた人たち。彼らは病人や罪人であった。彼らは、ユダヤの指導層たちから、また一般社会から排除されていた人たちであった。彼らは、義ではないから、病気になっている。義ではないから、罪人のままであると言われた人たちである。そのような人たちが、キリストの後についてきた。山の上まで登ってきた。キリストの言を求めてついてきた。キリストが語り給う恵みの言葉を聞きたいとついてきた。彼らは、義を飢え渇き求めていた。神の義しさを求めていた。神が義しいお方であるなら、わたしたちの苦しみを知ってくださるはずだと求めていた。彼らは、義を欠いていて、義を満たされたいと願っていた。そのような人たちに、キリストは語り給うた。「義を飢え渇き求めている者たちは幸いな者たち」と。

彼らは、今まで幸いと言われたことはない。不幸な人たち、呪われた人たちと言われていた。自分の生まれた境遇のゆえに、罪を犯さざるを得なかった人たち。境遇のゆえに、病気になってしまった人たち。彼ら自身の罪もあったであろうが、そうならざるを得ないところに置かれてしまった人たちだった。そのような人間たちが、何とか救われる道がないものかと苦しんでいたのである。その彼らの許に、キリストはおいでになり、御国の福音を宣べ伝えた。神ご自身が救い給うという福音を宣べ伝えた。

彼ら群衆たちには、自ら救いに至る道が閉じられていた。それゆえに、自らの外に救いを求めなければならない。それが、幸いなのである。すなわち、自らに力がなくとも、救い給うお方を仰ぐことができるようにされていることが幸いなのである。我々は幸いを自らが獲得することと考えてしまう。自らが獲得するのであれば、それは恵みでもなく、幸いでもない。獲得すべく努力した結果獲得したものは、当然の結果である。それを幸いとは言わない。むしろ、自らの力を、努力を誇ることになる。そのような人間は、自らの力の範囲のみで獲得するのだから、自らの力の範囲で生きることになる。こうして、人間は自らの力の範囲を出ることができなくなるのである。これがアダムとエヴァの堕罪が指し示していることである。彼らは、自らが判断する善と悪をすべてと考えた。自らが善であると判断することだけが善であり、悪と判断することだけが悪であるところから出ることはできないのだ。それゆえに、彼らの善悪は自らの判断の範囲を出ることなく、自らの判断がすべてとなる。こうして、人間の善悪は人間の判断の範囲を超える善はなく、悪もないことになる。従って、自らを越える神の善を捉えることはできないのである。自らの判断を越えた世界を生きることができなくなる。これは幸いではない。むしろ、不幸である。呪われていることである。何に呪われているかと言えば、罪に呪われているのである。我々人間は罪に呪われ、罪の範囲を出ることなく、罪に留まる。それが原罪なのである。ここから出るには、わたしの外から救いが来て、わたしを呪いに閉じ込めているものから解放してくれなければならないのだ。それこそが、真実に救いであり、幸いである。

この幸いを生きることができる人は、霊において貧しい人である。悲しむ人である。柔和な人である。義を飢え渇き求める人である。憐れみ深い人である。心の純粋な人である。平和を行う人である。それらの人々は、霊における貧しい自分を知っている。悲しみから抜け出せない自分を知っている。他者に責任を転嫁できない自分を知っている。義が欠けていることを知っている。憐れみをいただいていることを知っている。心が純粋に救いを求めている。平和が行われていないことを知っている。それらを求め、神に祈っている。そのような人たちが、神によって満たされる。そのような人たちが、神の力に包まれる。そのような人たちが、満たし給うお方を仰ぐ信仰を義と認められる。

幸いなる者たちは、自らの貧しさを知る者たちである。幸いは与えられるものだと知っている者たちである。幸いに生きる者たちは、自らの力を捨てている者たちである。「力を捨てよ。知れ、わたしは神」と詩編46編で歌われるとおり、自らの力を捨てざるを得ないところに置かれた人たちである。病人たち、罪人たちこそ、力を捨てざるを得ない人たちである。それゆえに、キリストは山の上で、み許に近づいてきたこれらの人たちに向かって、「幸いな者たちである」と語り給うたのだ。自らの力を捨てざるを得ないようにされたキリストがそうおっしゃるのだ。十字架の上で、自らの力を捨てざるを得ないようにされ、救い給うお方にすべてを委ねたキリストの言が、今日語られている。幸いとは、神が満たし給うことをいただく信仰に生きることなのである。ルターが見出した信仰義認の信仰は、このような信仰なのである。このようにされるに相応しからざる者を、神は憐れみゆえに、救い給う。これがキリストの十字架が我々に語っている言葉である。

今日共に与る聖餐において、キリストの言が、十字架の言が満たされる。我々のうちに、満たされる。キリストの義が、我々のうちに満たされる。不信心な者を義とする方を信じる信仰を起こし給うキリストの体と血に与り、神に注ぎ込まれた信仰のうちに生きていこう。あなたは神の満たし給う義を生きる者とされているのだから。

祈ります。

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