「ロゴスに清められ」

2017年11月5日(全聖徒主日)

ヨハネによる福音書15章1節~17節

 

「実をもたらすすべてを、それを彼は清めている。それが豊かに実をもたらすために。あなたがたはすでに清い者たちである、わたしがあなたがたに語ってしまっているロゴスを通して。」とイエスは言う。イエスの父なる神が、実をもたらさない枝を取り除き、実をもたらすすべての枝を清めていると言い、あなたがたは清い者たちであると言う。そして、父なる神の清めは、イエスが弟子たちに語ってしまっているロゴスを通して行われているのだと言う。父なる神の清めの行為は、イエスのロゴスを通して行われてしまっているのだ。イエスのロゴスを通して、すでに完了してしまっている清め。完了してしまっている清めは、完了してしまっている神の意志を受け取る者たちの上にある。それが聖なる人たち、ハギオスである。

全聖徒の日は、11月1日であるが、我々は主の日に全聖徒を覚えて礼拝を守っている。すべての聖徒たちは父が清めてしまっている者たちである。イエスのロゴスを通して清められてしまっている者たちである。彼らは、ロゴスを通してのみ清めに与っている。その他のものによっては清められない。ロゴスに清められる者たちこそ聖徒たちである。

イエスが語ってしまっているロゴスとは、イエスご自身の十字架を通したロゴスである。十字架はご自身のいのちである魂を神の前に置くことであり、命を捨てることである。すなわち、神の御用のために魂を置くのであり、自分の用のために使用するのではない。イエスは、神の御用のためにいのちである魂を置いた。この置くことを通して、イエスはロゴスとして生きておられる。すなわち、魂を神に差し出すことがロゴスが語っていることである。そのロゴスを受け取っている者たちは、神によって清められている。清い者として生きるのは、ロゴスのゆえであり、自分自身のゆえではない。我々人間に清さはないからである。

実をもたらすという事柄は、自分のための事柄ではない。実は他者のためにもたらされる。他者のために実を結ぶのである。その実が残るとすれば、他者のために残るのであり、自分のために残るのではない。実を残したわたしは消え、神の意志に従って実った実が残る。神のものとして残る。それが実をもたらす枝なのである。

この枝が、自分が実を結んだと自慢するとき、その実は腐っていく。誰にも渡さず、自分だけのものとして残そうとするとき、その実は実としてもたらされてはいない。それが実をもたらさない枝と言われていることである。どれだけ多くの実を付けていても、それが自分のため、自分を誇るために付けられているのであれば、それは実ではない。真実にもたらされた実は、自分の許には残らない。誰かを満たし、誰かを支え、誰かを元気づける。それが真実にもたらされた実である。そうではなく、自分を満たし、自分を支え、自分を元気づける実は、実ではないのだ。実のように見えて、実ではない。枝のように見えて、枝ではない。イエスのロゴスを通して清められていないのだから、自分のためにしか実を付けないからである。

イエスのロゴスを通して清められるということは、イエスが語り給うたロゴスに促されて、生きるときに生じる。イエスのロゴスは十字架のロゴスなのだから、その人には十字架の実が生じる。イエスの十字架の実は、人間の救いのために生じている。それゆえに、その実を受けた人は、他者の救いのために生きるようにされている。ロゴスに清められた人たちは、ロゴスに従って生きる。ロゴスに従って生きた人たちが聖なる人たちである。誰が聖なる人たちであるのかは人間には分からない。人間は外面的にしか見ることができないからである。神が見るように、その人の内側を我々は見ることはできない。それゆえに、我々は誰が聖なる人であるかを判別することはできないのだ。しかし、神ご自身がご存知である。それだけを知っておけば良い。それ以上に出ることは罪である。

それゆえに、我々が今日覚えている聖なる人たちは、神にすべてを委ねた人たちである。聖なる人は、神に自らの業を献げた人たちである。自分の救いのために献げたのではない。他者の救いのために直接的に献げたのでもない。むしろ、自らの業は神に献げられている。見返りを求めずに、神に献げられている。その業を神は用い給い、ご自身の業として他者にもたらし給う。本質的には、我々の業は我々が行った業ではなく、神が清め給うたがゆえに神の業として実をもたらしているのだ。我々が行う前に、イエスのロゴスを通して清められてしまっているからである。この信仰のうちに生きるならば、我々はイエスという幹に留まっている神の枝である。

我々が神の枝として生きるのではなく、イエスのロゴス、言が我々を神の枝として生かし給う。我々が神の枝となろうとするならば、我々の意志が先行し、我々の心の悪しきイメージが入り込む。我々は、神の枝となることはできない。神の枝は、神の意志に従ってこそ神の枝である。父なる神のぶどうの枝は、父の意志によって清められるのだから、父なる神の意志だけが残る。もし、我々の意志が残るようであれば、それは悪しき枝、悪しき実となってしまう。そこから、見返りを求める連鎖が発生する。自分のために集める連鎖が生じる。自分を中心とする自己意志が支配する世界が広がる。こうして、世界は神のぶどう畑から、人間たちのぶどう畑に変容してしまうのである。その枝を、神は取り除くであろう。集められ、火に投げ込まれるであろう。これは、人間の悪しき意志が支配する世界を神が取り除く出来事なのである。

我々が、神の意志に従って、自らの業を神に献げて生きるとき、我々は神の愛の中に留まっている。イエスの愛の中に留まっている。なぜなら、愛してくださるお方を仰ぎ、そのお方を愛し、そのお方のために生きようとするからである。神の愛をまっすぐに受けている者は、神の愛の被造物として、愛する者として造られている。父がイエスを愛したように、イエスが無償で我々を愛したように、我々も互いを愛する者として造られているのである。

我々は、このようになるに相応しい者ではない。相応しからざる者を愛し給う神の愛、イエスの十字架の愛を受け取る者は、父とイエスとのうちに生き、父とイエスがその人のうちに生きる。こうして、必然的に実をもたらす者とされる。我々が実を結ぶのではなく、神が結ぶように、豊かにもたらすようにと清めてくださるのだ。我々はどこまで行っても悪しか行わない罪人である。しかし、神は我々を愛し給う。我々を実をもたらす者として形作ろうとしてくださる。神は、我々のうちにキリストを形作ろうとしてくださっている。このお心、神の意志があるかぎり、我々は落胆する必要はない。今すぐに、変わり得ないとしても、必ず神の枝として変えられていくのだ。イエスのロゴスが働いているからである。我々のうちに働いているからである。

キリストを信じ、キリストのうちに生き、キリストと同じように十字架を負い、生きた一人ひとりを神は聖なる人たちとして喜び迎え給う。その人たちは、自分の力によって生きたのではない。キリストの力によって、父なる神の愛によって生きた。聖なる者としての自覚があったわけではない。未だ清からざる者として生きたであろう。生涯、悔い改めて生きたであろう。キリスト者になりつつある者として生きたであろう。自らの身体を打ちたたいて、生きたであろう。罪に沈んだ日もあった。悪に負けてしまった日もあった。しかし、キリストのロゴス、キリストの言が彼らの内なる人を新たにし給うた。キリストのロゴスに励まされ、キリストのロゴスに清められ、キリストに従って、自分の十字架を取った。そのような一人ひとりが、教会の枝として生きた聖なる人たちである。苦難を負いつつ、キリストのロゴスの力に包まれた人たちである。

我々は、全聖徒の群れを見上げながら、キリストの教会に連なる者として生きていこう。あなたもキリストのロゴスに清められ、聖なる者として生きる。キリストのロゴスがあなたのうちにあるならば、あなたはキリストの弟子、愛によって造られた者。

祈ります。

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