「すべてを包む愛」

2017年11月12日(聖霊降臨後第23主日)

マタイによる福音書22章34節~40節

 

「あなたは愛しなさい、あなたの神、主を、あなたの心全体において、あなたの魂全体において、あなたの思考全体において。」とイエスは答える。さらに「あなたは愛しなさい、あなたの隣人を、自分自身のように」と答える。律法の専門家がイエスに問うたのは「どの掟が最も大きいのか、律法の中で」であった。つまり、それ以上に大きいものはない掟とは何かを問うたのであり、それは一つである。ところがイエスは二つ答える。どうしてなのか。イエスの答え二つは「あなたは愛しなさい」で始まるのだから、一つなのである。イエスはこれら二つにおいて「愛する」という掟が最も大きいと語っているのである。その愛の相手は、まず神であり、次いで隣人である。しかし、隣人は自分自身のように愛しなさいと言われているのだから、自分自身をまず愛していることが必要なのである。

我々は自分自身を愛しているであろうか。自分自身とは何もない自分自身である。地位のある自分でもなく、お金のある自分でもなく、人に認められる自分でもない。それらは自分自身に付属している何かを愛しているのである。我々は、それらをはぎ取った自分自身を愛しているのだろうか。何もない自分自身を、自分自身そのものを愛しているのだろうか。まずそれを考えて見なければならない。

自分が愛しているのが、地位やお金や評価であるならば、隣人を愛する場合も地位のある人、お金のある人、評判の良い人を愛することになるであろう。その場合、真実に隣人を愛しているわけではない。その地位を愛しているだけで、その人が地位を剥奪されれば、その人を愛することはない。むしろ、何もないその人を愛するとき、その人自身を見返りを求めずに愛することになる。愛するということは見返りを求めないことである。その人からの見返りや、おこぼれに与るために、愛していると思っているだけであるなら、見返りがなく、おこぼれもないなら愛さないであろう。それは愛ではない。

従って、神を愛すること、隣人を愛することは、同じ在り方で愛することなのである。神から見返りを求めて愛するという場合は、見返りを愛しているのだから、神を愛していない。神を愛するということは、わたしの心全体においてと言われているように、他に何も入り込まない全体において愛することなのである。不純なものが入り込まないのだから、ここで言われている全体においてという三つの繰り返しは、純粋にと言い換えても良い。純粋な心で、純粋な魂で、純粋な思考で、神を愛するということである。

この純粋な愛は、先ずはじめに神によって我々に与えられたのである。神は、我々が神に背いていても、愛し給うた。神を離れても、愛を送り続けておられる。神を捨てても、愛してい給う。我々が如何なる者であろうとも、神は我々への愛を保ち続けておられる。それが神の純粋な愛である。この神の純粋な愛がはじめにあってこそ、律法はあるのだ。十戒の前書きにはこうあるではないか。「わたしはヤーウェ。エジプトの国から、奴隷の家からあなたを導き出したあなたの神。」と。この前書きが語っているのは、見返りを求めず、イスラエルの民を愛し、奴隷の家から導き出した神が、わたしヤーウェであるということである。この神の愛がまずはじめにあって、十戒、律法が与えられているのである。従って、十戒に代表される律法は、神の愛を無償で与えられた民がこのように生きるであろうことを願って、与えられた神の意志なのである。律法の命令形は、神の愛を受けた存在は、このように生きるであろうという命令形である。それゆえに、律法を守るならば、何かを与えられるということではない。まして、完全に自由を与えられた存在に神が願う生き方であるがゆえに、律法は神の愛に形作られて生きるものなのである。

イエスが律法の中で最も大きな掟として語る「愛しなさい」という掟は、神が形作り給う姿で生きることを意味している。それゆえに、自分自身をありのままに愛するものでなければ、隣人を愛することはないし、神を純粋に愛することもない。なぜなら、自分自身そのものを造り給うたのは神だからである。神が造り給うたわたしという存在は、地位やお金や評価でできているのではない。ただ、わたしという存在として神が造り給うたのである。それゆえに、わたしがわたしを愛するとすれば、神が造り給うたわたしそのものを愛するはずである。そのわたしそのもののように、隣人を愛しなさいと言われているのだから、隣人も何もないその人そのものを愛しなさいと言われているのである。さらに、神を愛することも、神が何か与えてくださるからではなく、すでにすべてのものを与え給うたお方、純粋にわたしを愛してくださったお方として、愛するのである。

わたしの心を造ったのも神、わたしの魂を造ったのも神、わたしの思考を造り給うのも神。しかし、人間の心や魂や思考は、悪しかイメージしない、悪しか考えないのではないのか。創世記8章21節にもそう語られているではないか。そのようなわたしの心、わたしの魂、わたしの思考が純粋に神を愛すると言えるであろうか。言えないのである。では、どうしたら良いのか。言えないことを知っている者は、神を愛するであろう。なぜなら、自分の心も魂も思考も、神に反していることを知っている者は、神に申し訳ないと思うであろうから。これほどに、神に背いている自分を愛し給う神を知っているならば、神を愛するように造り替えられていく。神を愛せずにはおられない。

ありのままの自分を知る者は神を愛する。罪深き自分を知る者は神を愛する。愚かな自分を知る者は神を愛する。神に愛されている自分は、何もないというよりもむしろ神に背いている自分だと知る者は、神の愛の純粋さを知る。その愛がすべてを包み、我々を愛する者として形作るのである。

イエスが示した二つの掟の下に、律法全体と預言者たちが「ぶら下がっている」と言われているのである。神がこのように生きて欲しいと言われた律法全体と神の意志を伝えた預言者たちは、神の愛の中にぶら下がっているのである。それゆえに、神の愛の中に包まれている者が、律法全体を全うする。それが信仰なのである。信仰とは、自分自身を神の中に投げ入れることだからである。神こそ信仰そのものであり、神こそ義そのものであり、神こそ愛そのものである。この神の愛の中に包まれ、ぶら下がっている者は、愛を生きるであろう。神によって、愛する者として造られるであろう。それゆえに、二つの掟こそが最も大きな掟「愛」なのである。

これが神の愛であるならば、神がご自身の愛の純粋さから、すべてを造り給うたのである。この世界は、神の愛に包まれている。神の愛が造った世界。神の愛がすべてに行き渡っている世界。我々が如何に罪深くとも、神の愛が行き渡っている以上、神の愛が最終的にすべてとなる。すべてを包む愛を信頼するとき、我々は自分自身に純粋になり、ありのままの自分を愛し、ありのままの隣人を愛する者とされるであろう。わたしを嫌う者であろうとも、神の愛の被造物である。その人そのものは神の愛に満たされている。この世界の出来事も神の愛そのもの。それゆえに、我々は落胆する必要はない。サドカイ派の人が言い込められたと聞いて、喜び勇んだファリサイ派の人たちのような者にも、イエスは真理を語り給うのだ。彼らを愛し、彼らに必要な愛を伝え給うのだ。それを正しく受け取るか否かは、彼ら自身が自分を純粋に愛しているか否かにかかっているが、イエスの愛は変わりなく注がれている。

我々キリスト者も、イエスの愛をいただき、イエスを愛し、神を愛し、隣人を愛する者として造られつつある者である。そのために、キリストはご自身を献げてくださった。十字架において示された神の愛から引き離すものは何もない。キリストが愛しておられるあなたは、キリストが語られたようになるのだ。キリストの言があなたのうちで、キリストご自身とあなた自身とを一つとし給う。あなたが一人のキリストとして生きるようにと語り給うみことばは、あなたを包む愛であり、失われることなく、終わりの日まであなたを導き給う。

祈ります。

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