「持ち続ける心」

2017年11月19日(聖霊降臨後第24主日)

マタイによる福音書25章1節~13節

 

「なぜなら、愚かな者たちは彼らのランプを取って、自分自身と共に、油を取らなかったから。しかし、賢い者たちは油を取った、壺の中に、自分自身のランプと共に。」と言われている。愚かな者と賢い者の違いが語られている。愚かな者はこう言われている。「自分自身と共に、油を取らなかった」と。賢い者たちは「自分自身のランプと共に」油を取ったと言われているので、あえて「自分自身と共に、油を取った」とは言われていない。油を取るのは「自分自身と共に」取るということである。つまり、自分自身の愚かさや罪深さを認識して、油を取るのである。油は、オリーブ油のことであるが、それは「喜びの油」である。賢い者たちは、自分自身と共に喜びの油を取るということである。

賢いということは、自らの愚かさと罪深さを知っているということである。自らに喜びがないことを知っているということである。他者の喜びを共に喜べない自分自身を知っているのである。他者の不幸は蜜の味と言うように、人間は他者の不幸は喜ぶが、他者の喜びは喜べない。むしろ、妬みに変わって行くのである。そのような自分自身と共に、油を取るということが大事なことである。この油は、喜び、しかも自分にはない喜びを表している。自分から溢れてこない喜びを表している。従って、賢い者たちは自分自身が他者の喜びを喜ぶことができない罪人であることを知って、自分自身と共に油を取るのである。自分自身のランプと共に油を取るということは、ランプがその人自身を表しているとも言えるであろう。それゆえに、ランプの油が尽きることを知っているということは、自分が喜べないこと、喜んでも喜びが尽きることを知っているのである。

油は自分とは違うところから与えられる。自分自身と共に取る喜びの油は、自分自身を喜ばせる力だと言える。それは自分の外に求めなければならない。自分の外にある油を自分自身と共に取ることが、最後に言われている「見張っている」ということである。

「目覚めていなさい」と訳される言葉は、「見張っていなさい」とも訳すことができる。つまり、自分自身を見張っていなさいということが、目覚めていなさいという言葉の意味である。目覚めている人は、自分自身を見張っている人。自分自身が如何に愚かで罪深いかを見張っている人。そのような人は、自らの愚かさを賢さに変えてくださるお方を仰ぐ。自らの罪深さを義に変えてくださるお方を仰ぐ。我々は自分で賢くなることも、義となることもできないのである。

愚かで罪深くなってしまった我々人間は、賢く義となることは自分ではできなくなっているのである。ただ、そのような自分自身を認識し、見張っている者は、自分を賢く、義としてくださるお方を求める。見張っている者は、自分自身を愚かで罪深いと認識し続けているのであり、その心を持ち続けているのである。その心さえも、神から与えられるものである。その心とは主を畏れる心である。

賢さが、自分にはないという認識を聖書はこう語っている。「主を畏れることは知恵のはじめ」と。詩編111編10節や箴言1章7節などで語られているが、イザヤ書33章6節ではこう語られている。「ヤーウェは、あなたの時を確かにされる。知恵と知識は豊かに救う。ヤーウェの畏れ、それが彼の宝」と。ヤーウェを畏れる心をヤーウェが宝として与え、畏れをいただいて、人間はヤーウェを畏れるということである。自然的人間にはヤーウェを畏れる心はない。アダムとエヴァの堕罪以降、人間は神を畏れることなく、人間を恐れるようになった。自然的人間は神への畏れを持たない。しかし、神は人間に畏れを送り、受け取る者は自らの愚かさと罪深さを知る。知った者は賢さを与えられる。神に祈り求める賢さを与えられる。自らが罪深く、愚かであることを認める賢さを与えられ、神に祈る者とされるのである。

では、この賢さはどのようにして与えられるのか。あるいは、どのようにして受け取るのか。受け取る者が受け取るのではあるが、受け取らない者が受け取る者に変わることができるのであろうか。その可能性がないわけではない。今日のたとえは、究極的時の出来事なのだから、ここまで行ったならば可能性はない。しかし、その前であるならば可能性はある。それゆえに、イエスは「見張っていなさい」とおっしゃるのだ。

イエスが「見張っていなさい」とおっしゃるのは、我々が自分自身の罪深さ、愚かさに気づいていないからである。見張っていることさえもできず、持ち続ける心がないということも、気づいていないのである。賢いと言われている乙女たちでさえ、「怠惰になり、眠ってしまった」のである。「眠気が差す」という言葉は、だるくなり、怠惰な気持ちになることである。賢い乙女たちも怠惰になり、眠る。それゆえに、彼らは自分の心を保持することができないと知って、自分自身と共に油を取ったと言われているのである。彼らの喜びを持ち続けさせるのは、彼ら自身ではなく、彼ら自身と共にある油なのである。この油があるがゆえに、彼らはたとえ怠惰になってもなお、花婿を迎えることができたのである。この油は、イエスの言である。「見張っていなさい」という言葉である。そして、イエスの言と共に働き給う聖霊である。

我々は神の喜びを持ち続けることはできない。しかし、イエスの言と聖霊とがあるならば、見張っていることができるのである。この聖書そのものが油である。喜びの油である。神の喜びを持ち続ける心を与え給う神の言葉こそ、我々が持っているべき油なのである。この油は尽きることがない油。豊かに救う油。知恵と知識との宝。神の言を持ち続けることこそが、神の喜びを持ち続ける心を与えるのだ。そして、我らの見張りとなってくださるのも、神の言である。

この神の言であるキリストこそ、我らの救い。我らの知恵。我らの宝。十字架の言を語り給うキリストこそ、罪人を救い給う天の宝である。十字架の言は救われるわたしたちには神の力であると、使徒パウロが言う通り、十字架の言こそが我々を救う力であり、喜びの油なのである。我々はこの油を、自分自身と共に、自分の魂と共に、取るのである。そのとき、尽きることのない喜びが、わたしと共にあり、わたしを喜びに満たし、わたしが怠惰となったときにも、見張りの力となり給うのである。

賢い乙女たちも怠惰になり眠ってしまったが、油が彼らと共にあったことによって、目が覚めてすぐに備えることができた。愚かな乙女たちは、油が彼らと共になかったがゆえに、目が覚めてから右往左往することになった。目が覚めてすぐに判断できるものではないのだ。賢い乙女たちは、自らの怠惰さも弁えていたと言えるであろう。いや、彼らが弁えていたというよりも、彼らと共にあった油が怠惰さを克服させたのである。さらに油は他者のために仕える心をも守るのである。他者の喜びを共に喜ぶことを守るのである。

油は喜びの油。喜びを与える油。喜びを燃え立たせる油。乙女たちが他者の喜びに仕える喜びを燃え立たせるのが、共にある油である。キリストの十字架も他者の救いのために立っている。キリストの十字架は他者の喜びに仕える油を供給する。キリストが苦しまれたのは、我々人間が自分のために生きるのではなく、他者のために生きる者とされるためである。他者の喜びを妬み、他者の不幸を喜ぶ罪人が、他者と共に喜び、他者と苦難を共にして、互いに支え合う神の子となるために、キリストは十字架を負われたのだ。このお方こそ、我々の真実なる油。我々に喜びを与え給う油。我々が自らを見張り続けることができるようにと注がれる油。持ち続ける心を目覚めさせる油。

我々には、キリストの十字架がある。キリストは我々自身と共にいてくださる。我々の魂と一つになってくださる。キリストが聖書を通して語り続けてくださる言葉が、あなたと共にあり、あなたを神の子として育み給う。あなたが必要なとき、必要なところで、喜びの油を与えてくださるお方と共に生きていこう。終わりの日まで。祈ります。

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