「最も小さい王」

2017年11月26日(聖霊降臨後最終主日)

マタイによる福音書25章31節~46節

 

「確かに、わたしはあなたがたに言う。これらの最も小さいわたしの兄弟たちの一人にあなたがたが行ったことの分だけ、わたしにあなたがたは行ったと」。この言葉は王の言葉である。しかも、人の子は彼の栄光の座に座るときにこう言うのだと言われている。つまり、人の子は王であり、王は最も小さい者たちの兄弟である。ということは、王は最も小さい者たちを代表する王であり、最も小さい王なのである。それゆえに、多くの人が気づかない王であるとも言えるであろう。そのような王が、自分の兄弟たちにしてくれたことを自分のことのように受け取り、喜ぶのは当然である。この王は、人の子であり、最も小さい王である。つまり、メシア、キリストは救い主であるが、最も小さい者たちの兄弟としてやって来るということである。それゆえに、イエスはロバに乗ってエルサレムに入城したのである。

イエスは、人の子として、最も小さい者たちの兄弟として来られ、兄弟たちを救うだけではなく、最も小さい者たちと共に生きる人たちをも救うのである。従って、最も小さい王は、ここで言われているように、飢えている王である。渇いている王である。見知らぬ旅人の王である。裸の王。病気で弱っている王。牢獄にいる王である。このような王は、本来の自分の居場所を失っている王であろう。本来は王であるが、王の地位を奪われ、飢え渇き、見知らぬ旅人となり、裸で弱り果て、牢獄に入れられている。この王は、本来性を奪われた存在である。従って、人の子も本来性を奪われ、蔑まれ、見捨てられている。救い主は、そのような姿で来られるとイエスは言うのである。

これが救い主の姿だとは誰も思わない。王であるとも思わない。そして、人々は王の兄弟たちも兄弟だとは思わない。むしろ、自分たちの世界から彼らがいなくなれば良いと考える。汚れた存在。弱い存在。疎まれる存在。それらが王の兄弟たちなのだとイエスは言うのだ。そうであれば、人の子は、救い主は、本来性を奪われた存在の兄弟として来たるということである。

本来性を奪われた存在は、この世界から排除される存在。小さくされて、除け者にされる存在。しかし、彼らは本来の王の兄弟たちなのである。最も小さい者たちは、この世界で生き難さを抱えている人たちである。この世に迎合しないからである。この世において見知らぬ人のように生きているからである。理解されず、共に生きることを拒否されている。そのような人たちが本来性を生きることができないとすれば、彼らを排除する人たちは本来性を生きているのであろうか。いや、排除する人たちも本来性を生きていないのである。彼らは本来性を捨ててこそ、この世で価値ある者として生きることができている。それゆえに、本来性を生きようとする人たちの存在が迷惑なのである。最も小さい人たちが自分たちが捨てた本来性を生きようとしているがゆえに迷惑なのである。そんな生き方は理想であって、現実的ではないと排除する。この世にはこの世の生き方があると受け入れない。本来性を生きていては、この世で生きることができないと思い、捨てたのだから。最も小さい人たちが語っている本来のいのちの在り方を捨てたのだ。それゆえに、最も小さい人たちが生きることができない状態を造り出してしまうのである。これが我々人間の罪の状態である。

見知らぬ人になりたくない。飢え渇く人になりたくない。裸になりたくない。弱くなりたくない。牢獄に入りたくない。それゆえに、この世の価値に従って生きる。この世から排除されないために、人に認められるように生きる。満腹して生きる。多くの衣服をまとって、自分を大きく見せる。弱さを蔑み、力ある者になることを目指す。牢獄に入れられないようにと、他人を牢獄に送る。こうして、この世の価値の中で自分の居場所を作る。

この世で見知らぬ人であろうとも、神は知っておられる。弱さゆえに、神の力によって生きる。飢え渇きは、神が満たし給うと信じて生きる。裸であろうとも、神の前と同じように生きる。牢獄に入れられても、神において自由な者として生きる。これが最も小さい王であり、人の子であり、キリストである。キリストは最も小さい者たちと同じ境遇を生きた。獄に入れられ、裸にされ、飢え渇き、弱さのゆえに十字架に架けられた。しかし、キリストは神によって自由にされ、復活のいのちを生きた。このお方が救い主である。弱く、飢え渇き、牢獄に入れられ、見知らぬ者として排除されたキリストが王である。

本来、王であるキリストは、人間存在の本来性を回復するために、この世に来られた。この世の中で本来性を剥奪されている存在の兄弟として来られた。その兄弟たちと同じ生を生きた。その兄弟たちが奪われているように奪われて生きた。彼らが本来のいのちを生きることができるために、十字架を負われた。このキリストが最も小さい王である。そして、本来の王である。我々人間は、この本来の王を排斥し、飢え渇きに追いやり、裸にして、弱らせ、十字架に架けて殺したのである。イエス・キリストはこの世の最も小さい者たちが与えられたいのちを真実に生きるために、十字架を引き受けてくださった。それゆえに、我々は自らが小さくしてしまっている人々を、キリストの兄弟として受け入れなければならない。最も小さい王の兄弟たちを受け入れなければならない。しかし、誰が受け入れるであろうか。この世にどっぷりと浸かっているこのわたしが受け入れるであろうか。自然のままでは受け入れないであろう。ところが、自らが弱くされたとき、病気になったとき、牢獄のような状態に置かれたとき、裸にされ、さらされる経験をしたとき、その人たちの思いを受け入れるであろう。それゆえに、弱さは恵みであり、病も牢獄も裸も恵みである。神があなたに与え給うた恵みである。この恵みをいただいた人は、如何なる状態にあろうとも神の恵みを信じることができる。神の善を信頼することができる。神の義がわたしを包んでくださり、造り替えてくださることを信じることができる。そのような神の弱さ、神の裸、神の飢え渇きは、十字架のキリストに現れている。

神は王としての本来性を人間から奪われ、裸にされ、排除され、弱くされた王である。しかし、本来性はいずれ現れるもの。失われることなく現れるもの。来たるべき終わりの日に現れるもの。十字架のキリストを仰ぐ我々キリスト者は、この終わりの日を望み見て、この世を歩む。いずれ現れる本来性を信じて、いずれ回復される本来のいのちを信じて、この世の日常を歩む。日常に流されることなく、キリストの十字架を見上げつつ歩む。日常が消えゆく終わりの日に、真実のいのちが現れることを信じて歩む。最も小さい王を仰いで歩む。最も小さい人々を招いて歩む。最も小さい人々と共に歩む。彼らはキリストの兄弟であると信じて歩む。我々の日常は終わりの日に向かう日常である。今日が良ければ、それで終わるわけではない。行き着く先がある。目指すべきところがある。神の国が来たる、そのときを信じて歩む。この世の最も小さい人々が存在の永遠性を認められる世界を望み見て歩む。神の国の中で歩む。この歩みを我らに示し給うたキリストに従って歩む。

キリストは十字架の上から招いている、ご自身の道へと。あなたが最も小さい人々として歩む道。最も小さい人々を兄弟姉妹として歩む道。キリストの道は険しく困難な道。しかし、キリストが歩み給うた道。我々が歩むことができるようにとキリストが備え給うた道。この道の上に置かれていることを感謝して、歩み続けよう。弱くとも神がおられる。裸であろうともキリストの兄弟姉妹。飢え渇きにもキリストが共におられる。牢獄にもキリストはおられる。十字架のキリストは、最も小さきところにおられる。小さくされたところにおられる。落胆することはない。如何なるときも、如何なるところも、キリストのおられないところはないのだ。あなたをご自分の御国へを迎えるために備え給う道を、キリストと共に歩み続けよう。祈ります。

Comments are closed.