「解放と派遣」

2017年12月3日(待降節第1主日)

マルコによる福音書11章1節~11節

 

「あなたがたは向こうの村へ行きなさい。そこに入るとすぐ、あなたがたは見出す、その上に人間の誰も座ったことのない縛られている子ロバを。あなたがたはそれを解放して、連れてきなさい。誰かがあなたがたに、なぜ、こんなことをしているのかと言ったら、こう言いなさい。彼の主が必要を持っています。またすぐ、彼を派遣します、再び、ここに」。イエスは、このように弟子たちに語った。ここには解放と派遣が語られている。縛られている子ロバを解放し、ご自身の必要のために連れてきて、再び派遣する、同じところへ。

この子ロバは「人間の誰も座ったことがない」と言われている。それなのに、「縛られている」と言われる。誰も座らせないものが縛っているのである。誰も座らないように縛っている。縛っているのは、子ロバの持ち主である。人間が誰も座らないように縛っているということは、荷物だけを運んでいた子ロバなのであろう。ところが、イエスはその荷運びの子ロバの上にご自分が座る。そして、再び同じところに派遣すると言うのである。子ロバは縛られていたところから解放され、イエスに座られて、派遣される。イエスはご自身の使命をここで語っておられる。解放と派遣であると。しかも、ご自身がその上に座ることによって、それまでの生が新たに生きられるようになる解放の生となり、派遣される生となると。

解放と派遣を伝えるために、イエスは縛られている子ロバに座って、エルサレムに入城する。最も小さなものを解放し、新たに生きるように派遣するイエスは、最も小さな者たちの兄弟である最も小さな王としてやって来る。彼らが縛られているところから解放するイエス。このお方を迎えて、人々は叫ぶ。「ホサナ、祝福あれ、主の名において来られる方。」と。イエスも神ヤーウェの名において派遣されたお方であると、人々は叫ぶ。それが救い主、メシア、キリストである。このお方は、新しい国を造り給う。解放された者たちの国を造り給う。派遣されたところに、彼らの国がある。神の国がある。彼らは、解放され、再び派遣されて生きる。神の国の中で生きる。この世にあって、神の国の中で生きる。人々はこのように叫んでいるのだ。

我々人間は、何かに縛られている。我々は生き難さを感じている。どうしてそうなのかを分からないままに生きている。仕方ないのだと生きている。しかし、縛られていることに気づかない。自分では気づかない。自分で解くこともできない。縛られているということは、気づいていない自らの意志で縛られているのであり、そこから解放されることは痛みや恐れを生む。それゆえに、縛れていることで安心しているのでもある。ところが、我々はどこかで感じている。生き難いと感じている。わたしの魂は苦しんでいる。苦しみつつ、何かおかしいことを感じている。自分からその状態を離れることは恐ろしい。不安である。痛みがある。失うものもある。それゆえに、縛れていても、考えないようにしている。おかしいと感じながら、それに慣れていく。

罪は、我々をそのように縛っている。罪は誰にも縛っていることを気づかせない。自分の意志でここにいると思わせている。しかし、そこいるのは自分の意志のようでいて、縛っているものに支配されているのである。自分で生きているようで、支配されている。誰にも支配させないように、罪は縛っている。こうして、我々は罪の支配の中で、自分で生き、誰にも座らせず、神にも支配されないように生きて行く。罪に支配されている魂は、神に支配されることで自分を生きることができなくなると考える。今まで自分の意志で生きてきたのに、神の意志に従うなどということに我慢ならない。神はわたしをご自身の意志に縛り付け、生き難くするお方だと思う。自分が罪に支配され、縛られているとは思ってもみないからである。

我々は、今まで縛られていたところから解放されることを望む場合でも、解放されることを痛みだと感じるものである。当然、今までとは違うように生きるのだから、今までの生を捨てなければならない。それゆえに、痛みは伴うであろう。苦しいと感じることもあるであろう。それゆえに縛っている罪は、苦しみを思わせ、痛みを思わせて、縛っている。我々人間は、自分でそこから出てくることはできない。誰かが解放しない限り出てくることはできない。その解放は痛みを伴う解放である。そのために、解放する存在は痛みをご自分の上に引き受ける。それがイエス・キリストである。十字架のキリストは、解放される我々が受ける痛みをご自分が引き受けてくださった。罪から離れることができない我々を解放するために、ご自分が痛んでくださった。罪からの解放の痛みを引き受けてくださった。

子ロバを解放するとき、人々に言う言葉、「彼の主が必要を持っている」と言われる必要とは、彼のために主が痛む必要があるということである。我々の上に座ることによって、主はわたしの主として責任を持って、わたしの痛みを負ってくださる。子ロバはそのイエスの働きを語っている。このお方が座ることで、我々は解放され、新たに生きるのだと。解放された存在は再び派遣されることで新たに生きる。わたしの主がわたしの上に座っておられるからである。主の支配の下に生きるようになるからである。神が主体である世界を生きるようにされるからである。神の国を生きるようにされるからである。

神の国では、我々は神の支配の中で、神に従って、神を喜んで生きている。罪の支配から解放された存在は、そのような生に派遣される。派遣されるのは、以前と同じ日常である。しかし、派遣されて生きる日常は、もはや罪の奴隷ではない。神の奴隷である。神の奴隷は、神に支配され、罪から守られ、神に従うことを喜びとする日常を生きる。罪に縛られていたときに感じていた違和感や生き難さを感じることはない。むしろ、喜んで人に仕え、喜んで献げ、喜んで小さな働きを担う。小さな者として生きる。この生を自由において生きる。解放されて生きる。

我々がこの自由に生きるためにキリストは来たり給う。解放と派遣を実現するために来たり給う。ご自身の上に、我々の解放の傷みを負うために、キリストは来たり給う。十字架の苦しみを負うために来たり給う。クリスマスに生まれる嬰児は、その生涯の始まりから苦しみを負い、ご自身の使命を果たすために、エルサレムに入城された。クリスマスに生まれることの目指すべき場所は、エルサレムにあった。イスラエルの魂が本来性を縛られているエルサレム。人々を縛っているエルサレム。罪に支配されたエルサレム。預言者たちを殺害したエルサレム。エルサレムに捕らわれている魂たちが解放され、派遣されるために、キリストは入っていく。この街に入っていく。この世に入っていく。地上に入っていく。天上から降り給うキリストの降誕がユダヤの小さき村ベツレヘムであったのは、子ロバに乗ることと一つである。この世への入口は最も小さきところ。この世への入口を入るのは最も小さき嬰児。最も小さき王として、イスラエルの魂エルサレムに入るキリストは、解放と派遣をご自身の十字架をもって実現し給う。

待降節の日々を歩み始める我々は、キリストが来たり給うことを魂において迎える。罪に縛られている魂を解放するために来てくださるキリストを迎える。クリスマスの主は、我々一人ひとりの魂を解放するために来てくださる。あなたが縛られている罪。あなたが縛られている世界。あなたが縛られている世間。そこから解放されることで、あなたは新たに生きる。日常の中で、新しいいのちを生きる。神の支配の中で生きる。罪に曇らされていた目を開かれて生きる。神の信実が解放してくださったあなたのいのちを生きる。

十字架のキリストは、ご自身の体と血を通して、あなたを解放し、あなたを派遣する。新たな生へと派遣する。神へと向かって生きる生に派遣する。キリストの体と血があなたのうちに受け入れられるとき、あなたはキリストと一つとなり、キリストを生きる者とされる。クリスマスを待ち望む我々のうちにキリストが生まれ給うように。

祈ります。

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