「派遣された声」

2017年12月10日(待降節第2主日)

マルコによる福音書1章1節~8節

 

「見よ、わたしは派遣している、わたしの天使を、あなたの顔の前に」と預言者イザヤは神の言を語った。神が派遣している天使。それが洗礼者ヨハネである。天使は、神の言をそのままに伝える者。神の使者である。ヨハネはただ神の言を伝えるために派遣された。彼は、叫んでいる声として派遣された。「主の道を備えよ。彼の小路をまっすぐに作れ」と叫んでいる声が、ヨハネなのである。派遣された声は、ただ叫ぶだけであり、その声を聞いた者が神の言に従うように派遣されている。

しかし、声を聞いても聞かず、従わない者は派遣された声を天使だとは思わない。むしろ、自分たちの世界を妨げる悪魔だと思うであろう。人間は自分の行動を妨げられることを嫌う。自分の行動が肯定されることを求める。それゆえに、妨げる声は悪魔の声だと思うのである。敵だと思うのである。

派遣された声は、荒野で叫んでいると言われている。声は、我々の荒れ地において叫んでいる。荒れ地にいない人間は聞かない。裕福な地に住む人間は聞かない。豊かさに満足している人間は聞かない。わざわざ荒れ地にやって来る人間が聞く。自らを荒れ地だと認識する人間が聞く。荒れ地である人間は自らを認めてこそ、聞く耳を開かれる。認めるためには、声を聞かなければならない。認めていないならば、聞くことができない。ここには、越えられない壁がある。聞く耳を開かれている者が聞くからである。

この声は、「わたしが派遣している」とおっしゃるお方を知っている。派遣されている存在は派遣したお方を知っている。派遣されているのだから、派遣されたように生きなければならない。自らが声でしかなく、自らが何者でもないことを認めなければならない。それゆえに、洗礼者ヨハネは何者かであることを捨てて、荒野に生きたのである。荒野に生きる者だけが声として生きることができる。自分が語ることを聞かない者がいても、いらだたない。自分が語るべきことを語ることに留まる。聞く者が聞けば良いと語り続ける。自らが空しく死んだとしてもヨハネは声として生きる。自らの体が空しくなったとしても声は声として生きている。この声を聞く者は虚しさを知る者。自らの儚さを知る者。自らが何者かであろうとする者は聞かない。

ヨハネが声として生きたのは、声を発するお方の声であることを知っていたからである。声を発するお方もご自身の声のみですべてを包んでいたからである。声を発するお方も虚しさを知っておられる。語り続けてもなお、聞かない人間に語り続けるのだから。聞かなくとも語るお方が声そのものであり、ヨハネはそのお方の虚しさを知っているのだ。それでもなお、語らなければならない。そのお方が虚しさの中で語っておられるからである。

誰も悔い改めないであろう。誰も罪の赦しなど欲しないであろう。誰も罪など犯していないと思うであろう。人間は罪を知ってもなお、罪を犯し続けるのだ。罪が輝くために、罪が人間に罪を犯させるのだから。自らが輝くことを求める人間が罪を犯し続ける。犯された罪を悔い改めることなく犯し続ける。罪を指摘されても、どうせ罪人なのだからと開き直る。罪を犯し続けても、何も起こらないと思う。神が裁くと言いながら、誰も裁かれないではないかと思う。裁かれないのだから、空しい言葉が語られているのだから、罪を犯しても何も起こらないと思う。この世で犯した罪は裁かれるが、神は裁かないと思う。この世で犯した罪は誰も見ていなければ裁かれないのだから、神の前でも同じだと思う。隠しておけば良いのだから、神は見てもいないだろうと思う。なぜなら、自分に犯された罪を神は裁かなかったではないかと思うから。自らに犯された罪が裁かれないのだから、自分も罪を犯しても最後に悔い改めれば良い。本当に神が来たときに悔い改めれば良い。本当に来るかどうか分からないのだから、それまでは罪を隠しておけば良いのだ。誰も気づかない。誰も裁かない。誰も何も言わない。

我々人間は、究極的にこのように生きている。だから、誰でも罪を犯しているのだ。隠しているだけである。悔い改めることもないのだ。そのような人間が悔い改めるとすれば、神が悔い改めさせるしかない。人間の力では悔い改めることができないのだから、神の力によって悔い改めに至るしかない。それゆえに、ヨハネは悔い改めの洗礼を宣教した。人間が悔い改めて生きるには、神の力が必要なのだと宣教した。ところが、人々は洗礼を受けさえすれば、罪の赦しを得られると思い込んだ。それゆえに、悔い改めていなくとも洗礼を受けた。罪の赦しへと向ける悔い改めの洗礼であったのに、洗礼を受けるだけで良いのだと勘違いした。ヨハネは、そのことも最初から知っていた。それゆえに、自分には力がないことを表明しているのである。自分の後から来る方は、自分が行っているような洗礼ではなく、聖霊の中で沈める洗礼を与えるのだと言うのである。

聖霊の中で沈める洗礼は、聖霊に包まれて沈められる洗礼である。人間が洗礼さえ受ければ罪赦されると思う洗礼とは違う。罪赦されるために洗礼を受けるのではない。洗礼を受けるに相応しくない自分自身をすべて殺していただくために洗礼を受けるのである。その場合、罪の自覚がある者だけが受ける。聖霊によって罪の自覚を起こされた者だけが受ける。罪の自覚がない人間が受ける場合は、洗礼を受けることで罪赦されると思うがゆえに、その洗礼は有効ではない。聖霊の中で沈められるということは、端から見ていても分からない。真実に悔い改めていることも分からない。神のみがご存知である。真実なる悔い改めは人間には判断できない。ヨハネの洗礼も悔い改めを求めたが、人間がそれを取り違えてしまうこともヨハネは知っていた。それゆえに、真実に悔い改める者を起こす聖霊の働きが必要であり、聖霊の中で沈めるのは、わたしの後から来る方だと言ったのである。

派遣された声は、何も判断しなかった。ただ声として語っただけだった。声は声である。声を発したお方だけが声の内実を持っておられる。ヨハネが語ったとおり、声の内実を持っておられるお方だけが聖霊の中で沈めることができるのだ。このお方が来ることをヨハネは宣教した。ヨハネの宣教によって、このお方が来るのだと人々は知らされた。このお方はどのようにして来るのかは分からない。しかし、来るということだけは知らされた。ヨハネの後に来ることだけが知らされた。ヨハネの後に来るとは、ヨハネができなかったことを完成するお方として来るということである。完成するために来られるお方こそ、クリスマスに生まれ給うイエス・キリスト。飼い葉桶に生まれ給うイエス・キリスト。この世の片隅で、居場所のない生を受けたイエス・キリスト。このお方は、ただ神の力によってのみすべてを行うお方。人間の力に頼ることなく、神の力のみですべてを行い給う。その生の初めから人間は神の力によってのみ生きるのだと、飼い葉桶に生まれ給う。居場所がなくとも神の力に包まれているのだと生まれ給う。片隅であろうとも神が見ておられるのだと生まれ給う。

我々は、自らが人間であり、罪深く、神を信じない者であることを知らなければならない。悔い改めなどできない人間であることを知らなければならない。人を裁きながら、自分は隠れてしまう人間であることを知らなければならない。そのような人間のために、神はキリストを送り給う。ヨハネはそのお方を宣べ伝える声であった。声を声として生きたヨハネ。派遣されたところに留まったヨハネ。虚しさを生きたヨハネ。ヨハネこそは、聖霊の中で沈められた者である。自らが与えることができない沈めを知っていた者である。真実に悔い改める者とはヨハネのように生きる者である。

我々はヨハネのように声として空しく生きることの中に真実があることを忘れてはならない。ヨハネはキリストを最初に受け入れたのだ。そして神に受け入れられていることを生きたのだ。ヨハネは最初のキリスト者である。キリストを証しする者である。待降節の日々の中で、我々もまた神に従って生きる者として形作られるように祈りつつ歩もう。

祈ります。

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