「自己認識の道」

2017年12月17日(待降節第3主日)

ヨハネによる福音書1章19節~28節

 

「わたしは相応しい者ではない、その方の履物のひもをわたしが解くには。」と洗礼者ヨハネは言う。その方は「わたしの後から来られる方」だと言う。ヨハネは相応しい者ではないという自己認識を語った。この自己認識こそが、ヨハネが整えるべき道であり、人々が歩むべき道なのである。

洗礼者ヨハネは、「あなたは何と言うのか、自分自身について」と問われて、「わたしは荒野で叫んでいる声である。主の道をまっすぐにせよと」と答えた。ヨハネは自己自身を声と認識した。声は主体ではない。叫んでいる声は叫ぶ主体の声であり、主体が発するがゆえに声として生じる。生じた声は消えていく。声を生じさせた主体は消えない。それゆえに、何度でも声を生じさせることができる。声を生じさせることができる主体ではないのだと、ヨハネは自己認識した。それが「相応しくない者」としての自己認識につながる。

ヨハネは声として生じさせたお方が主体であり、主体であるお方のはきもののひもを解くことなどできないと答えている。それは当然である。主体であるお方のはきもののひもを解くということは、主体を持った存在でなければならない。ということは、ヨハネは主体を持っていないので相応しくない者だと言うのである。しかし、主体を持っていないならば、叫んでいる方の声として生じることができるのか。叫んでいる方が生じさせれば生じるのだから、できるのである。ヨハネは自らの主体において生じるのではなく、叫んでいる方の主体において生じさせられているということである。このような自己認識こそ、ヨハネが伝えたことであり、人間としての正しい自己認識なのである。この自己認識の道をまっすぐにするようにと、ヨハネは声として叫んでいる。

ヨハネが叫んでも、人々は自分が主体であると思うがゆえに、自分でまっすぐにしようとするであろう。自分でまっすぐにできないのが人間なのに、人間は自分でできると思い上がるのである。まっすぐにするということは、主体であるお方がまっすぐにしてくださることを受け入れることでしかない。人間は、まっすぐにしようとしても、主が如何なるお方であるかを認識していない。それゆえに、認識できていないお方に向かって、まっすぐになどできない。こちらで「わたしがそれだ」と言われれば、そちらに向き、別のところで「わたしが主である」と声が聞こえるとそちらに向く。人間は自ら主体を持っていると思うがゆえに、自分でその方を選択し、自分でその方に向こうとする。主体を持っていると思うがゆえに、右往左往することになるのである。

人間は声に過ぎない。主体が生じさせてようやく生じることができる存在に過ぎない。判断などできない。判断するのは神なのだから。人間は判断しようとして罪に陥ったのだ。善も悪も判断して、善を選択できると思い込んで、主体をつかんだと思い、罪に陥った。神が与え給うたものをいただくに過ぎない存在が、善も悪も判断して、選択できると思い込んでしまう誤謬に陥ったのである。判断などできない存在であるとの認識を持つことで、与えられたものが神の善から生じていると、人間は受け入れるであろう。如何なることであろうとも神の善が生じさせていると信頼することが、我々人間が神に造られた存在として生きるために必要なことなのである。ヨハネは、この道をまっすぐにせよと叫んでいる声なのである。

叫んでいる声としてのヨハネ自身も同じ自己認識の道を歩んでいる。先ず、ヨハネ自身がこの道を歩いている。それが声として生じさせられたことを生きるヨハネの生き方となっている。ヨハネは、自分の後から来られる方こそが、自らが歩んでいる道の向かうべきお方なのだと言うのである。それが「主の道をまっすぐにせよ」という事柄である。「主の道」と言われているのだから、主人であり、主体であるお方の道をまっすぐにせよという意味である。あなたがたの主体である方が、わたしの後から来られる方であると、ヨハネは叫んでいるのだ。その方を受け入れるようにと叫んでいるヨハネ。彼は、その方を受け入れて、叫んでいる。従って、ヨハネの叫びは自らが生きているように叫んでいるのである。あるいは、自らが生きるべきように叫んでいるのである。受け入れているヨハネ、受け入れるべく生きているヨハネ。このヨハネこそ、声として生じさせられたことを生きている。それゆえに、主に用いられたのである。

ヨハネのような自己認識の道を歩くということは、自己否定のように思える。取るに足りない存在であることを承認するのだから、自己否定だと思う。自己を肯定したいと思い、自己を肯定されたいと思うのが人間である。自分が何者でもないなどと言うことは自己の価値を低く見積もることだと思う。自己否定することで、自分を価値無き者としてしまうのだから、生きる意欲を持つことができないと思う。ところが、ヨハネは生きている価値がないなどとは思わなかった。むしろ、神の主体の中で、キリストの主体の中で喜んで生きていた。なぜなら、自分が価値のない者であろうとも、自分の主体が価値あるお方であるがゆえに、自分もそのお方の価値を喜ぶことができるからである。自分の価値を捨てることによって、最も大きな価値の中に生きることができるということである。たとえ、声でしかないとしても、最も価値あるお方の声である。たとえ、この世で地位を得なかったとしても、自分の所有が一つもなかったとしても、最も価値あるお方がわたしを所有してくださっている。いつでも声として生じさせてくださる。この信頼において、ヨハネは荒野に生きることができたのである。何も持たず、誰にも認められず、権力者に殺害されたヨハネ。しかし、彼は自分の主のうちにすべてを持っていた。わたしの主が力あるお方だと喜んだ。このような道をまっすぐにする使命を与えられたことを喜んだ。

誰もヨハネに従わず、ヨハネの言うことを聞かなかったとしても、最も価値あるお方に与えられた使命が彼の喜びであった。その使命が成功するか否か、何かを成し遂げるか否かは問題ではなかった。自分が使命を成就するのは、声として生きるときだと信じた。声として生じさせられ、声として消えていくとき、ヨハネは使命を成就するのである。

我々は、ヨハネのように生きることを素晴らしいとは思わない。ただの歯車になることのように思う。神の歯車にされて何がうれしいのかと思う。主体もなく生きて、主体もなく消えることになんの意味があるのかと思う。そのような人間がヨハネを殺害する。そのような人間が神を殺害する。そのような人間が人間の世界を構築し、神を追い出す。人間はアダムとエヴァの時代から、神を殺害し続けてきた。預言者を殺害し、ヨハネを殺害した。人間の世界を守るために殺害が繰り返されてきた。この世界に、ヨハネの後から来られる方、キリストが来たり給う。

キリストは、変わりようのない人間を造り替えるために来たり給う。聖霊によって造り替えるために来たり給う。聖霊によってマリアに宿るキリストが来たり給う。このお方は、我々人間のただ中に肉となって宿られた。肉となるとは人間と同じものになること。人間と一つになること。人間を造り替えるために、人間と一つとなるキリスト。このお方に造り替えられる者は、ただキリストを受け入れる者。自らの価値を求めない者。自らの価値をこの世から否定された者。自らが求めるこの世の価値を捨てた者。十字架のキリストのうちに自分自身を見出した者。何の価値も持たないこのわたしがキリストに受け入れられていることを見出した者。ヨハネが宣べ伝えた自己認識の道を歩まされている者。

我々は、この道を歩まされているキリスト者である。ご自身を殺害されたキリストの体と血に与ることを通して、我々はキリストと一つにされる。キリストのうちに生きる者とされる。キリストの主体の中で生きる者とされる。あなたの価値が問題なのではない。キリストがあなたを受け入れてくださっていることが最大の価値なのである。このお方と一つとされることを感謝し、喜びをもって近づこう、主の食卓に。

祈ります。

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