「神が喜ぶ者」

2017年12月24日(降誕前夜)

ルカによる福音書2章1節~20節

 

「栄光、高きところにおいて、神に。地の上に平和、神が喜ぶ人間たちのうちに。」と天使は歌う。天使の歌は神の栄光と人間たちの平和。しかも、神が喜ぶ人間たちのうちにある平和。神が喜ぶ人間たちとはどのような人間たちなのだろうか。神に従う者。神を愛する者。神にすべてを委ねている者。神はそのような人間たちを喜ぶであろう。しかし、羊飼いたちに向かって、天使は歌った。羊飼いたちは神が喜ぶ者。どうしてなのか。彼らが、天使の言葉を信じ、天使の言葉のとおりに出かけていったからである。彼らはどうして天使の言葉を信じたのか。彼らが信仰深い人たちだったとは聖書は語っていない。彼らは、いつもの自分の仕事をしていただけなのだ。しかも、夜中に家族を守るのではなく、羊を守っていた。これを人々は非難する。夜、男は自分の家族を守らなければならない。それが当然のことであると。それなのに、彼らは自分の家族を守らないで、羊を守っている。おかしい奴らだと。

羊飼いたちは、自分たちで選んでそうなったのではない。羊がいるから、夜守るしかない。羊を守るのが羊飼いの仕事である。当然の職務である。羊の飼い主に雇われているのだから、羊の飼い主が寝ている夜、代わりに仕事をしなければならない。しかし、そのような仕事をしなければならないようなところに置かれたのは、羊飼いたちが不甲斐ないからであると誰もが思っていた。誰かがしなければならない仕事なのに、それを引き受けている羊飼いたちが蔑まれる。それを担っている羊飼いたちは、飼い主に感謝されることもなく、仕事なのだから当たり前と思われている。お金を払っているのだから、ちゃんと仕事しろと言われる。誰がそのような境遇に彼らを置いたのか。社会である。

社会が動いていくために、担われなければならない仕事がある。そのような仕事を担いたくない人間が、最も力ない人間に仕事を押し付ける。お金が必要なのだからと、実入りが多いからと引き受けざるを得ない羊飼いたち。彼らをそのようにしたのは親が羊飼いだったからである。当時は、親の職業が子の職業になった。連綿として、同じ職業を受け継いで来た。これは誰の所為なのか。社会の所為だが、社会とは誰なのか。社会とは一人ひとりの人間たちが形作るもの。従って、羊飼いたちも社会を形作っている一員。ところが、社会は彼らを蔑む。自分たちが良い働きを先取りして、後に残った損な役割だけが残る。社会が押し付けたとは言え、後になった者が愚かなだけ。後に回された者が力がないだけ。後に残された者が貧乏くじを引く。弱い者がさらに弱くなる。持っている者はさらに持つようになる。これが社会である。人間の社会である。

誰も羊飼いたちを尊重しない。誰も羊飼いたちに感謝しない。損な役割を引き受けてくれたとは思わない。力なく、学もないからそんな仕事しかできないのだと馬鹿にされるだけ。そのような羊飼いたちが天使の知らせを受けた。どうしてなのか。神がそのような人たちを顧みているからである。誰も見ようとしない。誰も自分たちの所為だとは思わない。しかし、神はご自身の責任において、彼らを顧みる。羊飼いたちが引き受けた損な働きを顧みる。彼らを守るために、天使を遣わした。天使が羊飼いたちに語った言葉は「あなたがたに救い主がお生まれになった」であった。しかし、この知らせはすべての民に与えられる喜びだとも言われていた。すべての民に与えられる喜びなのに、「あなたがたに救い主がお生まれになった」という知らせなのである。

羊飼いたちは「あなたがたに救い主が生まれた」と言われて、驚いた。彼らに救い主が生まれるとはどういうことなのだろうか。誰からも認められず、馬鹿にされる羊飼いたちに救い主が生まれるとはどういうことなのだろうか。彼らが羊飼いをしなくても良いようになるということだろうか。彼らが馬鹿にされないということであろうか。彼らが人々から感謝されるということだろうか。救い主が生まれたからと言って、何が変わるのだろうか。彼らが社会的に尊敬される職業と認められるのだろうか。そうではない。彼らは何も変わらない。彼らの職業は羊飼いである。変わるとすれば、彼らに救い主が生まれたという事実があり続けるという点である。

それまで、彼らは救い主などとは関係のないところに生きていた。救いなどからは問題外のところで生きていた。救いに与ることなどないであろうと思われていた。そのような羊飼いたちに救い主が生まれたのだ。途端に、彼らは救いの中心に置かれた。しかし、救いというものがすべての民に知らせられなければ、彼らが中心だと認められることはない。そうなのだ。彼らは中心だと認められた。すべての民に知らせが送られた。この聖書を通して、彼らの上に訪れた救いが語られ続けている。彼らは救いの中心なのだと語られ続けている。彼らがすべての民に知らせたからであろうか。そうではない。飼い葉桶の嬰児が十字架に架かったからである。十字架の出来事の後、キリストの降誕を聖書が宣べ伝えたからである。羊飼いたちに告げられた天使の知らせを宣べ伝えたからである。羊飼いたちから始まった救いの出来事を宣べ伝えたからである。

羊飼いたちは、確かに、嬰児に出会って、自分たちが天使から聞いたとおりのことが起こっていると認めた。それを喜んで、帰って行ったと記されている。彼らは、誰も顧みてくれないところで生きざるを得なかった。しかし、この夜だけは違っていた。神が彼らを顧みてくださって、彼らに神の言葉のとおりの出来事を確認させてくださった。神は、我々を真実に認めてくださった。真実を語ってくださったと羊飼いたちは喜んだのだ。真実をもって語りかけられたことなどない羊飼いたち。彼らが神の真実の中に置かれたのだ。これを確認して、喜びながら、神を讃美しながら、彼らは帰っていった、羊飼いの職務へと。

神が喜ぶ者は、神の言に信頼して、出かけていく者である。神の言を信じ切れなくとも、出かけていって確認する者である。出かけていくことにおいて、羊飼いたちはすでに信頼の中にいると言える。たとえ、彼らが疑いつつも、出かけていったとしても、出かけて行こうと思ったのだ。彼らは、人間的には信じられなかったであろう。しかし、出かけていこうと思った。その時点で、彼らには信じる心が起こされていた。出かけることと信じることは両義的である。信じていなければ出かけない。出かけなければ信じていない。神が喜ぶ者とは信仰と行為とが一つである存在。信じるがゆえに行い、行うがゆえに信じている。この信仰は神が起こし給うたもの。彼ら自身から生まれたものではない。神が彼らに語りかけ、語りかけを通して、信仰を起こし給うた。語りかけられたとおりかどうかを確かめに出かけた羊飼いたちはその時点で信仰のうちに置かれていたのだ。彼らが何もない者だったからである。認められない者だったからである。

神喜び給う者は、この世では隅に追いやられている者。いや、隅どころではない、隅の外に追いやられている。認められず、感謝されず、馬鹿にされている。しかし、神は彼らを認め、彼らを喜ぶ。救い主も隅の外に追いやられた。キリストは町の外で十字架に架けられた。町の外に置かれた者が最初に十字架を見たであろうように、羊飼いが最初に嬰児を発見した。神が喜び給う存在として、彼らのうちに神の平和があった。神の平和が彼らのうちで、彼らに力を与えた。天使が伝えたとおりだった嬰児の出来事が力を与えた。彼らは自分たちの職務へ帰って行った。力を受けて帰って行った。彼らはもはや仕方なく働くのではない。神が喜ぶ者として働く。神の喜びが彼らを動かす。蔑まれる者が喜ぶ者として生きる。神を讃美する者として生きる。これがクリスマスの夜に起こった奇跡である。

彼らのこれからの人生は神が喜ぶ人生である。あなたがたの人生も神が喜ぶ人生である。羊飼いたちの出来事を聞いているからである。あなたがたもまた、神の顧みをいただいている。あなたがたに救い主が生まれた。あなたのうちに平和を与えるために生まれた嬰児イエスを受け入れよう。あなたは神の愛し給う喜びのこどもなのだから。

クリスマスおめでとうございます。

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