「顧みの光の中で」

2017年12月24日(待降節第4主日)

ルカによる福音書1章67節~79節

 

「わたしたちの神の憐れみのはらわたたちを通して。それらの中で、高きところから曙の光がわたしたちを顧みるであろう。」とザカリアは預言している。「訪れる」と訳されている言葉は、エピスケプトマイというギリシア語で、「目標に目を注ぐ」、「注目する」、「監視する」というスコポウという言に強意の接頭辞エピが付いた言葉である。「警戒する」、「見舞う」、「世話をする」ために「訪れる」というのが原意である。つまり「顧みる」ということである。単に訪れるのではなく、悪しき者から守るために訪れて、警戒するのだから、顧みるということである。顧みという事柄は、心にかけている相手を守る意志がなければ起こり得ない。ザカリアが預言した言葉は、神の顧みなのであり、神の守りなのである。神の民は、神の守り、神の顧みの光の中で安心して暮らすであろうという預言である。たとえ、暗闇に座していても、死の陰に座していても、神の顧みがあるのだから、神の平和シャロームがある。神に信頼している者は、神の顧みを信頼しているのだから、動揺することがない。暗闇でも光がある。死の陰においてもいのちがある。神の民は、神の顧みの光に照らされ、光の中で、恐れなく神に仕える。つまり、神を礼拝するとザカリアは預言するのである。礼拝するという出来事は神の平和の中に入ることであり、神の守り、神の顧みを信頼している者の在り方である。

この道をヨハネは整えた。この道は、神の民が救いを認識する道だと言われている。罪の赦しの中で、彼らは救いを認識するであろうと預言されている。救いの認識は、罪の赦しの中に置かれることで生じる。これが「高きところから曙の光がわたしたちを顧みるであろう」と預言されている事柄である。この曙の光こそ、キリストの十字架であり、十字架を負うために生まれ給う嬰児の光である。ヨハネの働きは神の顧み、罪の赦しがキリストにおいて来たることを証しすることであった。ヨハネの証しした道が、罪赦されている中で安心して生きる道、キリストの十字架の光の中で生きる道なのである。十字架こそ救いの認識をもたらす神の働きなのである。

この認識は如何にして得られるのであろうか。光が与えられることによってである。暗闇と死の陰の中に座している者たちを照らすと訳されている言葉は、光が与えられるという意味である。光が与えられることによって救いの認識が生じる。光が与えられるとその光によって、すべてが良く見えるようになる。目が開かれる。目が開かれたので、神の平和シャロームへと足を進め、入っていくことができる。その道が見えているからである。従って、高きところからの曙、顧みの光の中に入れられていること自体が、平和なのである。

では、光の中に入れられて、平和である存在が、平和へと足を進めるとはどういうことであろうか。平和に向かう道を歩んでいるならば、すでに平和である。神を信頼し、神の中で生きているからである。神が備え給うた道、神の顧みの道を生きている者は、すでに平和であり、すでに救われている。罪赦されている中に生きている。しかし、罪赦されている中に完全に入ってしまうことは将来に残されている。完全に入るのは神の導きに従って歩み続ける果てに可能となる。ルターが言ったように、生涯悔い改めて生きるのである。悔い改めても、再び罪を犯し、悔い改めることを繰り返す。この繰り返しの中で終わりの日を目指して歩む。このわたしがもはや罪を犯すことなく、完全に神に従い、神に信頼して生きることができるその日を望み見ながら、歩み続けるのである。それが生涯悔い改めという事柄なのである。

罪を犯さざるを得ない肉をまとっている我々人間は、原罪の中に生きている。罪を犯さざるを得ないということは、罪赦されてもなお犯してしまう原罪が我々のうちに住んでいるからである。使徒パウロが言うとおり、我々はどうにもしようのない罪の繰り返しの中に生きている者である。パウロはその自分を「悲惨で苦しんでいるわたし」と言った。パウロは罪の赦しを得ているのにである。それにも関わらず、彼のうちに住む罪が欲望を起こさせ、罪を犯させる。どれほど努力しても、自分で自分を良くすることができない。自分の意志と行動とはバラバラになっている。その悲惨さの中で苦しんでいる惨めな自分をパウロは嘆いている。罪赦されている存在であるパウロも、自らの惨めさを生きなければならなかった。罪を犯さざるを得ない自分の惨めさを感じずにはおられなかった。

この状態に陥っていることを認識している存在は、暗闇と死の陰の中で座している存在である。そこに座しているしかない存在なのである。自らでは抜け出せない。それゆえに、高きところから曙の光が顧みることが必要なのである。神の顧みの光の中で、ようやく我々は自らが罪を犯してもなお、赦し続けてくださる神を知るのである。顧みの光の中で、我々は完全に善き者とされる日を望みながら、歩み続けることができるのである。神の顧みの光こそ、我々に前進する力を与え給う光である。この光が、この世に来たった。クリスマスの嬰児の光が曙の光。顧みの光。我々が前進することを可能とする力。悲惨さの中で苦しむ者にこそ力となる顧みの光。これが飼い葉桶の嬰児、十字架のキリストなのである。

悲惨な状態がわたしを包んでいると認識する者は、悲惨な状態を越えることができる。自分の力によってではなく、神の力によって越えることができる。この超越は、人間にはできない。神が引き上げてくださることで可能となる。それゆえに、神が引き上げてくださることを受け入れる者が引き上げられる。引き上げてくださると信頼する者が引き上げられる。引き上げるために、わたしを訪れてくださったと受け入れる者が引き上げられる。キリストは、あなたがた一人ひとりを訪れてくださっている。あなたを引き上げるために。あなたが越えられないところを越えさせるために。あなたが縛られているものから解放されるために。あなたが他者を縛っているところから、その人を解放するために。キリストはこのために生まれ給い、十字架に架かり給う。

神は苦しむ人間のために、悲惨な人間のために、ご自身苦しみ、ご自身悲惨になられた。キリストが飼い葉桶に生まれ、十字架に死ぬことは、神の苦しみ、神の悲惨なのである。我々の悲惨以上に低きところへと降り給い、罪の中に縛られるキリスト。飼い葉桶も十字架も、神が苦しみ、惨めになること。悲惨さを生きる神、苦しみを耐える神。我々人間を顧み給う神は、悲惨で苦しむ神である。この神こそ、我々を守り給う神。キリストの父なる神。そして、キリストご自身は悲惨で苦しむ肉をまとった神。我々を救うために、我々のただ中に降り給うキリストは、父なる神の独り子として、我々を顧み給う光である。十字架から注がれる光。曙の光。キリストの光が、あなたを顧みる。あなたの悲惨さの中で輝くであろう。あなたの苦しみの中で光を与えるであろう。力ある者としてではなく、力なく弱き者として光を与えるであろう。弱くとも生きる力が備えられている。悲惨であろうとも生きる力は失われない。あなたの悲しみも、苦しみも、弱さも、情けなさも、すべてキリストが負い給うた。キリストの光が光を与え給うた。あなたは光に照らされて、光となるべく生かされている。光が与えられたあなたは、恐れることなく、神を礼拝するのだ。必ず、罪の赦しを完全にいただける日を望みながら、礼拝するのだ。それがキリスト者であるということなのだから。

クリスマスに生まれ給う嬰児は、十字架を通して、我々にご自身のいのちを与え給う。キリストの体と血に与る我々のうちにキリストは生きてくださる。暗闇と死の陰の中で座しているしかない我々のうちに、罪を住まわせている我々のうちに、キリストが生きてくださる。罪を働かなくし、ご自身が我々を支配してくださる。神に従う者として形作ってくださる。クリスマスの嬰児は、顧みの光の中に我々を包んでくださる。この夜生まれ給う嬰児を喜び迎えよう。あなたが光を与えられて、恐れなく神を礼拝する日々を生きることができますように、顧みの光を喜び迎えよう。

祈ります。

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