「知られざる者」

2017年12月31日(降誕後主日礼拝)

ヨハネによる福音書2章1節~11節

 

「これをイエスは行った、統治のしるしとして、ガリラヤのカナにおいて」と言われている。統治と訳した言葉は、ギリシア語でアルケー。もともと支配、統治を意味する言葉である。支配するということ、統治するということがすべての根源であるがゆえに「はじめ」や「最初」との意味も含むことになる。ここでイエスが行った「しるし」は、イエスの統治の始まりを表していると言えるであろう。

しかし、イエスは母にこう言っていた。「わたしに割り当てられた時間は未だ来ていない」と。その後、この「しるし」を行ったのである。どうしてなのだろうか。イエスに割り当てられた時間という言葉が指し示しているのは十字架であろう。その時間が来ていないところで、「しるし」を行ったイエス。「しるし」という事柄は、本体を指し示す指標である。本体が未だ来ていないのだから、それを指し示す「しるし」を行ったということである。つまり、カナでの出来事は十字架を指し示す「しるし」なのである。「しるし」は本体が現れたときにようやく分かるようになるものである。本体を指し示していながら、本体が分からなければ「しるし」がそれを指し示していたとは分からないのである。それゆえに、イエスに割り当てられた時間が来たとき、「しるし」が指し示していたことが明らかになる。それはイエスの統治のしるしであった。十字架がイエスの統治であり、イエスの統治が十字架において生じることを指し示しているのがカナでの出来事なのである。十字架は知られざる出来事として明らかになるのである。それをいただくものは、どうしてこのようなことが起こったのかを知らないままに恵みに与るということである。

カナにおけるイエスのしるしは、婚礼の席に座っている者たちには誰にも知られなかった。給仕長さえも知らない出来事であった。しかも、すべての者がその恵みに与り、最もよいワインを楽しんだのである。ただ、知っていたのは「水を汲んでしまっていた奉仕者たち」だけである。この奉仕者たちはイエスの言ったとおりに行った。イエスの言に従った。それゆえに、このしるしが行われた。イエスの言に従って恵みが生じることを奉仕者たちは知っていたわけではない。ただ、イエスが言ったとおりに行うようにと母マリアが彼らに語っていた。母マリアは、イエスが彼女の言葉を拒否したように思えるときにも、イエスを信頼していた。母マリアはイエスの統治を知っていた。母だけが知っていた。それが知られざる統治であることも知っていた。このマリアが奉仕者たちに予め語っていたことによって、奉仕者たちはイエスの言に従って行い、このしるしの出来事に用いられることになった。

奉仕者たちには、イエスへの信頼、信仰があったわけではない。ただ、彼らは自分の職務を遂行しただけなのだ。その職務への忠実さがイエスに用いられた。神に用いられた。みことばに用いられた。これがカナの出来事が指し示している将来の福音宣教の出来事であろう。福音を宣教する者は、みことばへの信頼において宣教する。みことばに従って宣教する。みことばがもたらすすべてを知っているわけではない。しかし、自らは神の言に仕える奉仕者であるという職務への忠実さにおいて、すべてのことが自分自身と自分の周りの者たちに生じることを信頼するのである。

自らはなすべきことをなすだけ。それを完成させ給うのは統治し給うお方。キリストの十字架も、完全なる神への信頼において救いの出来事として生じた。キリストが信頼した信仰を十字架が起こすことになる。キリストのように信仰において生きる者が生まれる。これがキリストの十字架に宿っている神の力である。カナで行われたしるしは、知られざる者たちによって行われた。奉仕者たちは誰にも知られざる者として働いている。キリストご自身も誰にも知られない者として働いておられる。すべての者が神の恵みに与るために、知られざる者たちが働く。これがカナのしるしが指し示している十字架の出来事なのである。

十字架がキリストの栄光なのだから、こうも言われているのだ。「そして、彼は現した、彼の栄光を」と。この栄光は統治する者の輝きである。この輝きを現すことは、イエスが誉め称えられるために現したことではなかった。誰にも知られない栄光として現されたのだ。知る者が知る。知らない者は知らない。恵みに与りながら何も知らずにいる。これが十字架なのである。誰にも知られないことが十字架の栄光なのである。知られざる者として輝くことが十字架なのである。

我々はカナでの出来事を聞くとき、このような素晴らしい出来事をどうして知らせないのかと思う。このようなことを行うことができると知らせるならば、誰もがキリストを信じたであろうにと。しかし、弟子たちが信じただけであった。それで良いのだとイエスは行い給うた。知る者が知る。知らない者は知らない。しかし、恵みがある。これが神の御業である。神ご自身も誰にも知られることなく、すべての者のために恵みを与えておられる。恵みを受けながら、感謝すらしない者にも与えておられる。マタイによる福音書5章45節でイエスがおっしゃるように「あなたがたの天の父は彼の太陽を昇らせている、悪しき者たちと善き者たちのうえに。そして、雨を降らせている、義人たちと不義なる者たちの上に」ということである。善き者たち、義人たちは知っているであろう。感謝しているであろう。しかし、悪しき者たち、不義なる者たちは知らず、感謝もしない。それでも、父なる神は善きことを止め給わない。善い者たちと義人たちの上だけに恵みを与えるということではないのだ。神はすべての人間の上に恵みを与える。それを知らずとも与える。神に信頼していなくとも与える。信頼している者は感謝するが、信頼していなければ感謝せず、偶然だと思うだけである。それでも、父なる神は善きことを止め給うことはない。それで良いのか、と我々は思うが、それが神のまことなのである。

神が我々被造物に対して持っておられるまこと。これを信仰と呼ぶのである。このまことである信仰は神の出来事、神の言に従う者に与えられる。神の言が彼らに信仰を起こし給う。神の言が神のまことを見る目である信仰を起こし給う。見えない目を開き給う。知られざる者として恵みを働き給うお方は、ご自身に従う者を知ってくださる。カナで知られざる奉仕をした奉仕者たちをイエスだけが知っておられたように、知られざる者の忠実さを神は知っておられる。彼らが忠実であることは、神の言が起こしたことだからである。

我々は、キリストによって知られざる恵みをいただいている。父なる神によって、知られざる善きものに恵まれている。これを受け取る者は感謝するであろう。受け取らない者は感謝しないであろう。それでも、恵みは感謝しない者をも包み、育んでくださっている。いつの日か、彼らの目が開かれるときを望みながら、父なる神は、子なるキリストはご自身の恵みを絶やすことはない。これが十字架であり、これが神の御業なのである。

クリスマスに生まれ給うた嬰児が、人知れず生まれ、人知れず働く羊飼いに見出されたように、カナにおけるしるしは人知れず働く奉仕者たちに見いだされた。彼らに感謝する者はいない。羊飼いにも感謝する者はいない。しかし、彼らは恵みを見出したがゆえに、恵みの中で生きることができる。恵みを当たり前と生きるのではなく、感謝して生きることができる。自らのいのちも感謝して生きることができる。他者のいのちも恵みの賜物と受け入れることができる。ご自身を最も知られざる者として現し給うたお方に従って、知られずとも喜び働くことができる。カナにおいて、キリストが現した栄光に包まれて、自らの働きを神に献げることができる。

この一年の歩みにおいて、誰にも知られず、誰からも感謝されなかったとしても、神は見ておられる。神だけが知っておられる。あなたの労苦も悲しみもキリストの十字架に引き受けられている。新しい年に向かって、後ろのものを忘れ、御顔を求めて進み行こう、統治し給うお方に信頼して。

祈ります。

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