「神悦年宣言」

2018年1月1日(新年礼拝)

ルカによる福音書4章16節~20節

 

「彼(主)はわたしを派遣した。わたしが宣言するために、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に新たに見ることを、圧迫されている人たちを解放のうちに派遣することを」とイザヤ書61章1節、2節のみことばをイエスは朗読した。これらの事柄すべてが「主の喜び受け入れ給う年を宣言するため」だとまとめられている。神の喜びの年。それは、神が喜び受け入れる年であり、神の喜びが宿っている年である。神が喜び受け入れる年とは、その年自体が喜びだということである。その年は、神がすでに喜び受け入れている。我々には未だ始まったばかり、完了していない年。しかし、神のうちではすでに喜び受け入れられている年。神は将来をも過去をも御手のうちに保っておられる。それゆえに、この世の時間のうちにあって、過ぎ去った年も来たるべき年も神の御手の中にある。神は将来をも過去をも統べ治めておられる。神の支配の中で、すべては善きものである。我々人間が如何に悪を働こうとも、神が造り給うた年は、時は、すべて善きものとして造られている。過去において、如何に悪が働いたとしても、そこにおいても神の善は実行されている。我々があるとき悪だと思えることに出会っても、後になってそれがゆえに今があると思えるように、神の善は将来を内包している。将来の善を内包している。それゆえに、現在において悪に思えてもなお、神の時の中では善なのである。

神が喜び受け入れておられる年が始まった。神に取っては、これからの年も過去のように把握しておられる。予知しておられる。我々は、過去の出来事すべてを把握しているわけではない。断片的にしか知り得ないもの。しかし、神においては、将来も過去のように把握可能なのである。それは神ご自身の中にすでにあり、これからもある善きものが働くからである。従って、神の許にあっては、来たるべき年々が善きものである。善きものを内包しつつ、生まれ来たる年である。昨年、悪しく思えることがあったとしてもそれも善であった。神の善が生じさせた出来事であった。神の善なる言があったがゆえに、それに反抗する悪が行われたかも知れない。それでもなお、反抗する悪は神の善なる言葉が生み出したのだ。それゆえに、善なる言葉の善が反抗する悪を支配している。支配された悪は、いずれ善に屈せざるを得ない。過去における悪は、将来における善へと、神によって転換させられる。これがキリストの十字架が語っている神の力である。それゆえに、すべての事柄が善へと転換させられていく。これが神が喜び受け入れ給う年なのである。

貧しさも捕らわれも圧迫も、すべて神喜び給う年に生じるであろう。しかし、貧しさは福音に満たされ、捕らわれは解放を宣言され、圧迫は解放における派遣に導かれる。貧しさもある。捕らわれも起こる。圧迫に打ちひしがれる。しかし、解放を宣言するみことばによって、これらすべてが神喜び給う年の中に置かれる。神悦年の中で、すべては善へと転換される。神喜び給う年は、宣言における年。宣言することは、すでにそうなのであると明示することである。明示されたものは明示されたようにある。それを受け入れるだけで、我々は明示されたものの中に置かれるのだ。すでにそうであるように生きることができるのだ。

この宣言をこそ、イエスは宣教の初めから行ってこられた。ナザレにおける最初の宣教から、イエスの宣教は宣言である。宣言された言の中に入る者が、その言の通りに生かされる。イエスはこのイザヤの預言を朗読した後、こうおっしゃっている。「今日、聖書そのものが満たされてしまっている、あなたがたの耳の中で」と。この宣言を聞き、宣言を受け入れる者は、その耳の中で満たされてしまっている聖書そのものを生きるであろう。聖書そのものとは、書かれている言葉の本質であり、言葉そのもののことである。しかし、書かれてしまっている言葉は書かれてしまっている言葉として読まれなければならない。その意味を受け取るだけではなく、言葉自体が我々の耳に入ってくるように、読まれなければならない。意味を受け取るということであれば、書かれてしまっている言葉はどんな言葉でも良いということになる。しかし、そうではない。このとき、イエスが朗読する言葉を聞いたのは、ユダヤ人である。彼らはヘブライ語で書かれてしまっている言葉を聞いたのである。それはヘブライ語の言葉として、彼らの耳の中で満たされてしまっている。彼らにはヘブライ語において耳の中で満たされてしまっているのだ。我々日本人にも、耳の中で満たされてしまっているとすれば、それは日本語としての神の言である。日本語で満たされてしまっている言葉が我々日本人には必要なのだ。ヘブライ語の意味だけが必要なのではない。日本語で語られた言葉が必要なのである。意味は、言に宿っているとしても、意味を指し示す言葉は別々である。意味さえ分かれば、言葉は必要ないということではない。我々の耳に満たされる言葉そのものが必要なのだ。その言葉が、ロゴスそのものである。ロゴスは、日本語においてもロゴスである。ロゴスそのものは、日本語を通して我々に来たる。ロゴスは意味ではない。言語の本体そのものである。ロゴスが意味を内包しているだけではなく、語られる言葉としての形も持っている。ロゴスは語られた言葉である。聖書そのものとは、語られたロゴスである言葉自体が持っている言葉としての語りかけなのである。

語りかけであるがゆえに、聞かなければならない。聞かないならば、語りかけは通り過ぎていく。通り過ぎて、他の誰かに受け取られるかも知れない。受け取られた時点で、語りかけは語りかけるお方そのものを与える。キリストが語りかけ給うお方そのものとして、ご自身を与え給う出来事、それが十字架である。この十字架を内包しつつ、イエスは今日満たされてしまっているのだと語りかける。あなたがたの耳の中で、満たされてしまっているのだと。聖書そのものが満たされてしまっているのだと。聖書そのものとは、語りかけ給うお方そのものである。神そのものが聖書そのものである。なぜなら、聖書は語りかけ給うお方の語りかけそのものとして記され、引き渡されてきたからである。聖書から、神の語りかけを受け取らないとすれば、聖書はただの文字である。ただの記号である。ただのインクの浸みである。

同じように、神悦年、神が喜び受け入れ給う年も、神の語りかけとして受け取らないならば、何も満たされていないただの時間の流れである。いたずらに過ぎ行く時間だということになる。しかし、神が喜び受け入れ給う年として受け取る者には、神の語りかけすべてが宿る良き年となる。すべてのことが、善きことへと収斂していく年となるからである。受け入れる者には善きことを見せ、受け入れない者には悪しきことに思える。それでもなお、神の善きものが充填された年。それが神悦年、神喜び給う年なのである。

我々にとって、2017年もそれ以前の年も、良い年と思えることもあれば、悪い年と思える年もあった。しかし、今このときに振り返ってみれば、すべて善きことへと収斂してきたということが見えるであろう。あのことがなければ、わたしは如何に傲慢になっていたであろうかと思う人もいるであろう。あのようなことが起こらなければ、わたしは恵みを見出すことができなかったであろうと思う人もいるであろう。あれが、今のわたしを形作っていると思う人もいる。あの苦しみがあって、いのちの深みを知ることができたと言う人。あの罪がわたしを常に突き刺し、謙虚にすると思う人。すべては、神喜び給う年の中で生じたことである。神が、この世のすべてを受け入れ、喜び給うがゆえに、すべては善きものとして今ある。過去も将来も善きものだけが残っていく。キリストにある存在には、すべてが益となるとパウロが語ったとおりである。

新しい年に我々は神の喜びを見出す。我々のうちに生き給うキリストによって見出す。十字架のキリストが我々を導く。神喜び給う年に導く。聖餐を通して、キリストと一つにされて、雄々しく歩みだそう。新しい、喜びの年を、常に御顔を求めつつ。

祈ります。

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