「必然なる突然」

2018年1月7日(顕現主日)

マタイによる福音書2章1節~12節

 

「見よ、東方からの学者たちがエルサレムへと現れた。」、「見よ、星が。彼らが東方で見た星が、彼らを先立ち導いた。」と記されている。新共同訳ではどちらも訳されていないが、「見よ」という言葉が最初に記されている。これは「ほら」や「ご覧」と訳されることもある。マタイによる福音書では、マリアの受胎を語るイザヤ書7章14節の言葉にも「見よ」が使われている。こちらは新共同訳でも訳されている。この言葉はギリシア語ではイドゥーであるが、ヘブライ語のヒンネーを訳したものであり、ヘブライ語の言い方が基本である。この言葉は、何事かが起こるとき、その出来事に注意を喚起する言葉である。それは、突然の出来事であり、人々には偶然と思われるであろうが、神が為し給うた出来事であると注意を喚起するのである。また、当たり前と思われる出来事を神の出来事として認識するようにと呼びかける言葉としても使われる。

東方からの学者たちは、エルサレムに現れたのだが、それは神の出来事としてそこに生じさせられたがゆえに、マタイは「見よ」と記している。さらに、彼らがヘロデのところを出たときに現れた星を見せられたことも「見よ」と記されている。これは突然の出来事のようであるが、偶然の出来事ではない。必然的な出来事である。なぜなら、学者たちを導くために現れた星は、神が彼らを救い主のところへと導くために神が現したからである。学者たちも偶然エルサレムに現れたわけではない。神が彼らをエルサレムへ導いたのである。神の必然の出来事を人間は突然の出来事、偶然の出来事と思い込む。これが我々人間の認識の甘さ、罪の目による認識の愚かさである。

学者たちが現れたことも、星が現れたことも、神の出来事である。従って、人間には突然であり、偶然に思えるとしても、神の出来事として受け取る人間には必然なのである。学者たちは、ヘロデのところではベツレヘムという地名しか知ることができなかったが、星が彼らを先立ち導いた。この星の出現は、偶然ではない。神の必然なる突然である。学者たちがエルサレムに現れたことも、必然なる突然であった。

ヘロデやエルサレムの人々は、突然の出来事にうろたえる。これを必然と受け止めることができず、突然の出来事にどう対処するかを考える。ヘロデは、学者たちの話を聞いて、生まれる幼子を殺害することを考えた。神の必然を受け取ることができない人間は、突然の出来事を、それだけで処理できる偶然の出来事と考えるのである。しかし、必然的な出来事はそれだけで生じるのではない。つながりがあって生じる。すべての出来事が神に起源を持って生じている。それゆえに、神の出来事は必然的に生じる。我々の世界に生じる出来事は必然である。これはマルティン・ルターが認めた信仰的世界観である。

我々にとって悪しきことを招くかに思える出来事も、神の必然であれば善であり、善きことへと導く出来事である。その善きこととは救いである。マリアの夫ヨセフに天使が語ったように「罪からの救い」が生まれるということ、これが神の善きことであり、神の必然である。これを受け入れることができない人間が、阻止しようとして、悪に悪を重ねる。それでもなお、神は学者たちに告げ、別の道を通るように導く。人間の悪にもかかわらず、神は善を保持し給う。

そのために、ベツレヘムの嬰児たちが殺害されることになっても、神は善であると言えるのかと我々は思う。人間の悪を阻止できない神は善なのかと。このヘロデの悪も神の必然なのかと。しかし、この悲劇も神の言葉ゆえに生じたことである。ヘロデが神の言葉を受け入れないがゆえに生じたことである。神の言葉ゆえに生じたヘロデの悪は、嬰児の殺害を起こした。しかし、彼らの魂のために、キリストは十字架を負われた。彼らの魂の救いはキリストの十字架において引き受けられている。人間の悪は、この世における悪である。ヘロデの悪は、自分で自分を救うために行われた。しかし、人間の救いは、神の許における救い、神による救いである。この世の救いのみを求めることは、結局自分の悪を増幅させることになる。悪に巻き込まれた嬰児たちは、キリストのうちに受け入れられ、彼らの苦しみと悲しみは十字架に引き受けられている。短いこの世の生においては悲しみがある。しかし、永遠の命においては喜びがある。我々がこの世における救いのみを求める限り悪を行ってしまうと、ヘロデが語っている。しかし、神の必然は、ヘロデの悪をも越えて、すべての民の救いを実現し給う。

突然に起こった出来事を如何に受け止めるかは信仰にかかっている。信仰においては、突然はなく、必然のみがある。自然的人間の思考においては突然であろうとも、信仰的人間においてはすべてが必然であり、神の国に向かうべく生じている。神の必然の導きを受け入れることが信仰なのである。必然なる突然を受け入れることが信仰における歩みである。学者たちは、ヘロデのところでは喜びを得ることはできなかった。ヘロデのところを出たとき、見よ、星が現れた。「星を見て、彼らは大きな喜びを喜んだ」と記されている。星を見ることがどうして「大きな喜びを喜ぶ」ことになるのだろうか。この理由は説明できない。彼らのうちに我知らず生じた大きな喜びなのだ。それは神の必然が生じさせた喜びなのである。

ヘロデのところでは喜びが生じなかった。彼らが地上の人間によって教えられることを求めたからである。地上の人間から喜びを与えられることはない。天の神、天の星が彼らに喜びを与えた。これも神の必然に感応した学者たちの喜びなのである。神の必然を受け入れるとき、我々は喜びに満たされる。如何なる苦しみも悲しみも神の必然と受け入れるならば、それは恵みとして働く。神の恵みが神の喜びを生み出す。使徒パウロが言う如く、神から苦難を恵まれているがゆえに、苦難を引き受ける者にはすべてが益となり、喜びが生み出される。

キリストが引き受け給うた苦難である十字架は、すべての喜びの源泉である。小さきユダの地ベツレヘムが大きな喜びを生み出す源泉。小さき嬰児たちの苦難が大きな喜びを生み出す源泉。片隅におけるキリストの十字架が全世界を包む喜びの源泉。東方の知られざる学者たちが見出した星が喜びの源泉として輝く。神の出来事は、小さな出来事の積み重ね。小さなことに神の必然を認める目には、神の大いなる喜びが宿る。この目を開かれることも神の必然である。

我々が歩み始める新しい年も神の必然によって生じる年である。「光あれ」と言われた神がすべての源泉である。神の言がこの世界を形作った。神によって語られた神の意志が世界を形作った。そこに生じる出来事は神の最初の意志、創造の意志から生じている。一つひとつの出来事が神において、世界を形作るように導かれている。我々は後ろのものを忘れ、前に向かって歩む。過去に捕らわれることなく、前に向かう。しかし、過去も将来も神の出来事のつながりの中で、神の御顔の前にある。後ろのものを忘れることは、神に委ねること。神がご自身の必然において生じさせた過去をご自身のうちに受け入れておられることに信頼すること。その過去から前に向かう我らは、神の善なる意志に従って、神の必然なる世界を生きて行く。たとえ突然に思えても必然である。偶然に思えても必然である。神の必然は、我々にとっての善きことではないかも知れない。善きことと思えないことが起こるかも知れない。しかし、神の必然はすべてを包み、善なる御国へと収斂していくのである。神がすべてにおいてすべてとなるときまで、我々は神の必然の中を歩いて行こう。すべてのことを通して、神の御顔を求めて行こう。我々の前には、キリストが先立ち導き給うのだ。

新年最初の主の日、キリストの体と血に与り、キリストと一つとなり、神の恵みをいただいて歩みだそう、新しい年、神喜び給う年、神の御顔輝く年を。神の御顔は常に、あなたの前に輝いている。すべての出来事において必然なる神の突然を喜ぶ年でありますように。

祈ります。

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