「生じる声」

2018年1月14日(主の洗礼日)

マルコによる福音書1章9節~11節

 

「そして、声が生じた、天から。あなたはわたしの息子、愛する者である。あなたをわたしは良く思う」と記されている。天から生じた声は、イエスにのみ聞こえた声。「あなたはわたしの息子、愛する者である」、「あなたをわたしは良く思う」という二つの声は一つのことを語っている。イエスは、天にいます父なる神の愛する息子であるがゆえに、父はイエスを良く思うのだと。この生じた声に従って、イエスは生きて行く。神の愛する息子だからこそ、神が良く思う者として生きていく。イエスの洗礼は、神の愛する息子としての生を生じさせること、神が良く思う者としての生を生じさせることとして、天から生じた洗礼である。

新共同訳では「天から声が聞こえた」と訳しているが、確かにイエスが聞いた声ではあるが、その声が生じたということが重要なことなのである。生じるという言葉はギノマイというギリシア語であって「生じる」という意味である。何事かが生じること、何かが存在し始めること、出来事となることを表す言葉である。出来事というものは生じるものである。生じるということは、神が生じさせることである。偶然に何かが生じることはない。すべてのことは必然的に神の意志によって生じるのである。そうであれば、ここで生じた声も必然的に生じた。天の父の意志として生じた。天の父がイエスに語りかけることが生じた。イエスに対して、声が生じたということにおいて、すでにイエスは愛する息子として良く思われているのである。なぜなら、良く思わない者に語りかけることはないからである。まして、語りかけられても、聞こうとしない者が良く思われることはない。従って、天から声が生じたと認識した時点で、イエスはすでに神に良く思われ、愛されている息子であった。その息子に向かって、声が生じた。生じた声は、息子によって受け取られ、息子自身がすでにそうであることを確認する。こうして、天から生じた声とイエスとは一体となって生きるのである。従って、イエスは天から生じた声のように生きる必然を生きるのである。これがイエスの洗礼において生じた神の出来事である。

イエスの洗礼に従って、我々の洗礼が生じる。イエスが父の愛する息子として良く思われていることを必然的に生きることになったように、我々も父の愛する息子、娘として良く思われていることを生きる。洗礼を通して生きるようにされる。洗礼を通して、我々がそのように生きる者とされるのは、イエスの上に生じた天からの声に起源を持っている。我々が自分だけで神の息子、娘となるわけではない。イエスと共に沈められることによって、イエスと一つとされるがゆえに、我々は神の愛する息子、娘として生じ、良く思われる者として生きるのである。

イエスの洗礼がなければ、我々の洗礼は当時のユダヤ人が行っていたのと同じ清めの洗礼でしかない。あるいは、洗礼者ヨハネの洗礼における悔い改めの洗礼でしかない。これらの洗礼とイエスの洗礼の間には大きな隔たりがある。人間が自分を清めることと神が生じさせる存在という隔たり。人間が自分で悔い改めることと神がイエスと一つとしてくださるという隔たり。この隔たりは、人間主体と神主体の間にある大きな深淵なのである。これを越えることは人間にはできない。神の必然に身を委ねることによってしか越えることはできないのだ。いや、越えるというよりも、全く別の次元に置かれることを受け入れるということなのである。

我々人間は、神によって創造された。創造された時点では、神が与え給うた善き意志が働いて、神に従う生き方をするように作られていた。しかし、そこに罪が入り込んできたがゆえに、与えられた善き意志が壊れてしまった。壊れた意志は、神の言葉、神の律法の良きことを知ってはいても、それを実行することができなくなったのである。むしろ、実行しようとすれば悪を行うことに陥ってしまうのである。人間は、ヘビの誘惑によって悪を選択してしまった時点で、神に従うことを捨ててしまった。捨ててしまった意志は、壊れてしまった意志となった。人間が自分で神に背くことを行ったことにおいて、人間が行うことはすべて自分のために行うものとなってしまった。たった一口の悪が我々のすべてを悪としてしまった。それゆえに、我々は如何に善い行為と考えられることを為しても、悪になってしまうのである。それは罪によって、自分の力で、自分の意志で善を選択できると思い上がるように導かれているからである。

使徒パウロが言うように、わたしの意志は神の律法を善なるものとして喜んでいる。しかし、わたしの意志はそれを実行できない。むしろ、わたしの肢体のすぐそばに悪が使用可能なものとして置かれているがゆえに、悪を選択してしまうのである。それは、自分の肢体で実行可能な律法を行うことであり、実行可能な律法は意志とは反対の罪の律法となってしまうからである。神が為さしめ給うことを行うことができず、自分が行うことができるものを選択する。あるいは、自分が誉め称えられることを選択する。ここにおいて、善き行為と見えるものであっても悪になってしまうのである。我々の手足で実行できることは、そばにある悪なのである。それゆえに、我々が神の律法を自分の手足で、自分の肢体で実行しようとすれば、実行可能な悪を行ってしまうとパウロは言う。わたしの意志が壊れていて、わたしの肢体を制御できないからである。この壊敗した意志を罪の奴隷的意志とルターは呼んだのだ。そして、パウロは、そのような自分自身の惨めさに嘆き苦しんだ。自己に絶望した。そのとき、ようやくパウロは肉である自己から解放され、キリストのうちに生きる者とされた。

我々が受けた洗礼は、パウロが嘆き苦しんだ自己の惨めさからの解放である。それゆえに、自分で悔い改めて受ける洗礼とは違う。自分で自分を清めようとする洗礼とも違う。神がわたしを殺して、新たに生かし給う洗礼は、キリストのうちに沈められ、キリストと共に起こされる洗礼なのである。我々人間は自分で清めようとすれば、悪しか行わない。自分で悔い改めようとすれば、傲慢の罪を犯す。自分から生じるものは悪なのである。しかし、天から生じるものは善である。

イエスの上に生じた天からの声が、イエスを愛する息子、良く思われている者として生じさせたように、我々は天から生まれなければならない。我々は自分で生まれることができないのだから、神によって生まれさせていただくしかない。自分の力で生まれようとするとき、我々は洗礼さえも悪としてしまうのである。洗礼は、神の必然によって生じる出来事である。それゆえに、我々が神に受け入れられる者になって洗礼を受けると考えるとき、それは天からの洗礼ではない。天からの声は生じない。我々が、自分の力ではどうにも抜け出し得ない罪の支配を自覚したとき、ようやく我々は神にすべてを委ねる者とされる。それは必然的にそうされるのであって、良く考えて自分でそうなるのではない。このように論理として語られることで、自分でそう思い込もうとする者も出てくるであろう。しかし、それでは越えられない。それでは、自分を捨ててはいない。それでは、自分の力の支配に従った道の上から移動させられてはいないのだ。移動することなく、それまで歩んできた道に絶望することなく歩み続けることになる。天からの声は生じないであろう。

イエスが受けた洗礼は、沈められたものであって、自分で沈んだものではない。ここに洗礼における生まれ変わりがある。生まれ変わるのは、沈められるという受動性の中でこそ生じるのである。天からの声は、受動性の中に沈められたイエスにおいて生じたのだ。我々の洗礼もまた、このイエスと同じように沈められることを受けることでしかない。受ける者は、必然的に受ける。その人は、神の愛する息子、娘であり、神が良く思う者であったのだ。それゆえに必然的に洗礼を受ける。イエスと一つとされる洗礼によって、あなたがたは神の愛する息子、娘である。神に良く思われている者である。イエスが歩んだ道を、イエスと一つとされて、生きて行こう。あなたの上に生じた声に従って。

祈ります。

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