「福音の中で」

2018年1月21日(顕現節第3主日)

マルコによる福音書1章14節~20節

 

「カイロスは満たされてしまっている。そして、神の国、神の支配は近づいてしまっている。」とイエスは神の福音を宣言した。神の福音は、神の時であるカイロスの満たしと神の支配の接近である。この神の福音の中で、「あなたがたは悔い改めよ。あなたがたは信ぜよ」とイエスは命じるのである。悔い改めも、信仰も、福音の中で生じることである。福音の中に入ることが悔い改めを起こし、信仰を起こす。だからこそ、イエスは宣言する、満たされてしまっている神の時と、近づいてしまっている神の支配を。すでにそれらは生じている。それゆえに、すべてのものが福音の中に包まれているのだ。あなたがたは包まれている福音の中で、福音に従って、悔い改め、信じるだけで良いのだ。何も功績を積む必要はない。律法の項目すべてを満たす必要もない。いや、満たし得ないのだから、満たすことは福音の中でこそ可能なのだ。神が満たし給うことに従うだけだからである。神の福音は、神が時を満たし、ご自身の支配を近づけることだからである。すべての主導権は神にある。人間が時を満たすことはできない。人間が神の支配を近づけることもできない。ただ神のみが満たし、近づけるお方。これこそが福音なのだ。

人間になし得ないこと、従い得ないことを神が為してくださったということが神の福音なのだ。神の福音という神が主体である福音をイエスは宣言した。イエスの宣言において、福音はすでに生じている。イエスはすでに生じている福音を確認し、宣言している。しかし、神がときを満たし給うとはどういうことであろうか。神がご自身の支配を近づけ給うとはどういうことであろうか。

人間はときを動かすことはできない。ある約束のときまでにすべてのことを整えることもできない。我々人間に可能なのは、自分の事柄だけである。自分の上にある事柄に関しては、我々は何もできない。自分の下にある事柄は生活上の事柄であり、自分自身に関することだけである。他者を動かすことはできない。自然を動かすこともできない。道具は使うことができる。それとても、自分が使うというに過ぎない。

しかし、世界を動かしているかのように思っている人間もいる。支配者と呼ばれる人たち、国王、大統領、首相、独裁者などは国を世界を動かしているのではないのか。いや、動かしているかのように思い込んでいるだけである。彼らが動かしているのは、世界ではなく、彼らを通して得をすると考える世界だけである。彼らが損をさせると考える世界は、彼らに従わない。足をすくわれることも起こる。得する者が彼らに従っているかのようでありながら、もっと得をさせる人間が現れれば、そちらに付いていく。現実の世界においては、我々末端の人間と何ら変わらないのである。彼ら支配者と呼ばれる者たちが世界を動かしているわけではない。群衆が動かしているわけでもない。すべての者が自己の利益を追求しつつ、世界を少しずつ我が方に向けて行こうとする。その戦いの中で、世界は右に左に揺れ動いている。こうして、世界は人間の支配が包んでいるように思えて、人間の罪がすべてを包んでいるのだ。人間の罪が、互いの足を引っ張り合い、互いの頭を叩き合い、互いに打ち負かし合う。これが世界であり、統一された世界など絶対に来たらないのである。統一された世界は人間の支配の究極であろう。しかし、人間の統一は人間からは来たらない。すべての者が一人ひとり、人間以上の存在、神に従うときまで人間の世界は一つにはならない。神の支配のみが唯一の支配なのである。その世界を我がために来たらせようとする者たちも、イエスの当時にはいた。神の支配なのに、我がために来たらせ、神を我がために使う支配を考えていた。そのような神の支配は神の支配ではない。それゆえに、神の支配の方が近づき給うことが福音なのであり、福音を受け入れることだけが神への従順である信仰なのである。この福音の中に入ることができない人間は、自分のために神を使おうとする人間なのである。

ときを満たし給うのも、ご自身の支配を近づけ給うのも神である。ときは満たされてしまっているという受動態は、神によって満たされてしまっているということである。神の支配の方が近づいてしまっているのである。我々人間が近づこうとしても、我々の思いに従った神の支配を求めるのだから、近づくことができないのである。我々が神の支配に近づこうと思っている場合、我々が考える神の支配に近づくのであり、我々の考えと違う神の支配には近づかない。ということは、我々は永遠に神の支配に近づくこと、神の支配に入ることはできないのである。永遠のときの中で、神はご自身の時を満たし給う。それゆえに、我々人間がときを満たすことなどできない。できないにも関わらず、我々が宣教し、神の支配に服する人が増えていけば、ときは来たると思ってしまう。我々が宣教しても、神のときは来たらない。神の支配は近づかない。あくまで、神ご自身の決定し給うときに、決定し給うように来たるのが神の国、神の支配なのである。

我々は、それをただ受けるだけである。受けるだけだとすれば、我々から神に近づくことはできない。神の国に入ることもできない。ただ、イエスが宣言したときに、満たされ、来たってしまっているのである。イエスの宣言を聞くこと、聞き従うことにおいてのみ、我々は神の国に入るのである。それこそが福音なのだ。福音は、向こうから来たる。福音は、我々を包んでいる。我々はその事実を受け入れる。それだけが福音の中で生きることなのである。

福音の中に包まれていることを受け入れたとき、我々には神のとき、カイロスが満たされてしまっている。福音の中で神のカイロスを受け入れるとき、神の支配は近づいてしまっている。福音の中でこそ、我々は救われる。福音の中でこそ、我々は神の支配に身を委ねる。福音の中でこそ、我々は悔い改めである方向転換をすることができるのだ。悔い改めは、生きる方向の転換である。自分の力で生きていた我々が、神の力の中でただ受け取る者として生きるようにされるとき、我々は悔い改めている。我々にできないことを神が為し給うたと喜び受け入れるとき、我々は福音の中に生かされている。我々の力を捨てるとき、神は我々の神として我々を支配し給う。「力を捨てよ。知れ、わたしは神」とルターが愛した詩編46編で歌われているように、我々は力を捨てなければならない。自分の力が何もなし得ず、むしろ神に反抗していると知るとき、我々は力を捨てるであろう。如何に、努力しても、神に反抗しているのみなのだと知るとき、我々は方向を転換するであろう。それこそが福音なのだ。

我々の努力が水泡に帰し、我々の力が悪を為し、我々の望みが神に反抗していると知るときこそ、福音のときである。福音の中で、我々は真実の自分を見るであろう。罪深く、神に背き、神を利用し、神を殺害する自分を見るであろう。キリストの十字架は、神の殺害である。キリストの十字架は、神への反抗である。キリストの十字架は、人間の罪を神の意志に従わせるように転換する神の力である。我々が如何に悪人であろうとも、神はご自身の福音を宣言し、福音の中に包み給う。包み給う神こそ、福音そのもの。神が近づき、神が実現する約束。それが福音である。キリストはこの福音を宣言した。宣言を聞いた者が、宣言された福音の中で生きるようにと、キリストは宣言し給う。このお方は、十字架の上から宣言し給う。あなたは近づき給う神の支配を拒否し、満たされてしまっている神のときを拒否した。それゆえに、あなたが十字架に架けたわたしは宣言する。罪深きあなたに宣言する。あなたが自分の力を捨て、福音の中で悔い改めに至るように、信仰に至るようにと宣言すると。キリストの宣言によって福音はすべての者を包む。しかし、耳開かれた者だけが福音の中で生きる。生きる方向を転換し、神に信頼して生きる。このようになる者として、我々を導き給うキリストの宣言である宣教を感謝しよう。ご自身の体と血において、我らを受け入れ給うキリストによって、あなたは神の福音の中で生きることができるのだ。

祈ります。

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