「権威の教導」

2018年1月28日(顕現節第4主日)

マルコによる福音書1章21節~28節

 

「これは何なのか。権威に従った質的に新しい教えだ。彼が汚れた霊たちに命じると、彼らは彼に聞き従っている」と人々は口々に言う。汚れた霊たちがイエスの命令に聞き従っているがゆえに、質的に新しい教えだと言う。イエスの教えは、律法学者たちのように、聖書の言葉を解説するのではないからであると言われている。権威を持っている者のようにイエスは教えていた。宣言、命令という形を取っていた。当然である。権威を持っているということは、宣言する言葉を持っているということである。命令とは、宣言である。このようになれと宣言するというよりも、このようになるという権威を持っているがゆえに、宣言になる。命令は、それを相手に行わせる言葉であるが、宣言と命令は同じである。命じられて、それに従う者は宣言を宣言する権威において聞いている。権威を認めるがゆえに、権威に従う。権威を認めない存在は従わない。

イエスは、宣言する権威を持っていた。その権威は神の権威である。洗礼において、天からの宣言を聞いたイエスには宣言する権威が与えられていた。それゆえに、イエスの宣教は宣言であった。この宣言を聞いた人々は、イエスの言い方が権威を持っている者のようだと認めた。しかし、それは「~のようだ」というだけであって、権威を持っているお方として聞いてはいない。ただ、汚れた霊だけが聞いた。汚れた霊はイエスを知っていたからだと告白している。「あなたが何者であるかを我々は知っている。神の聖なる者だ。」と。

聖なる者、ハギオスとは、神に従う者だが、神のものとして生きている存在である。人間に左右されることなく、神のものである自分を神に献げて生きている。それゆえに、人間を恐れることなく、人間におもねることなく、ただ神の意志を宣言できるのである。汚れた霊にものを言うことを許さず、イエスは宣言する。「口を封じられよ。彼から出て行け」と。汚れた口を封じられよと言う。神によって口を封じられよと言う。神が口を造ったのだから、神が封じれば語ることができなくなる。神が汚れた霊の口を封じることによって、汚れた霊に支配されている存在は、何も聞くことができなくなる。汚れた霊の言葉を聞くことができなくなる。汚れた霊の言葉が、その人を汚していた。汚れた言葉を聞かせ、汚れた言葉を語らせ、自分自身を汚れさせていたのが汚れた霊なのである。マルコによる福音書7章15節でイエスがおっしゃっているように、「人間の外からその人へと入っていくものは、彼を汚すことのできないものである。むしろ、人間から出て行くものが人間を汚すものである。」というとおりである。それゆえに、この汚れた霊に支配された人の口からは、人を汚し、自分を汚す言葉が繰り返し出てきていた。イエスはその口を動かしている汚れた霊に「口を封じられよ」と宣言した。口を封じられたがゆえに、汚れた霊は出て行くのだ、その人から。

イエスの教えは、権威に従って宣言する教え。権威が教え導く。権威の教導がイエスの宣教なのである。イエスが教え導くというよりも、イエスに与えられている神の権威が教え導く。イエスは神の意志を宣言する。人を汚す霊が口を封じられるようにと宣言する。この宣言によって、汚れた霊に支配されていた人は癒やされた。イエスの宣教は癒しを伴う。イエスの癒しは、その人が神のものとして生きることができるように宣言することに伴って生じる。癒しだけを見てはならない。癒しは、宣言されたイエスの言葉の権威がその人を解放したしるしなのだ。従って、権威の教導を認めることがイエスを信じることである。

イエスの宣言した言葉は、汚れからの解放を生じさせた。汚れた霊が出て行くということが起こった。汚れた霊の支配から解放されることで、汚れから浄められる。この浄めは、聖化でもある。聖なる者とされることである。神のものとして生きるようにされることである。この人の側には何もない。汚れた霊に支配されているということしかない。人間の力は何もなし得ない。いや、むしろ汚れを広げることしかできない。それゆえに、イエスは宣言するのだ。宣言に聞き従うようにと宣言するのだ。聞き従う者は、何もない者である。彼に力はない。彼には信仰もない。彼は自分を浄めることもできない。憐れなその人は誰にも関わりを持たれなかった。誰もがその人の汚れが移らないようにと、避けていた。避けられたその人の苦しみや悲しみは誰も知らない。人間は何もできず、その人から離れるのみ。しかし、イエスはその人に近づいて、宣言した。その人に向き合って宣言した。その人の魂に宣言した。その人の魂をつかんでいる汚れた霊に宣言した。汚れた霊がその人の魂を手放すのは、その人がイエスの宣言を聞き、イエスの宣言を喜び受け入れたからである。

彼は、自分で汚れた霊を追い出すことができなかった。イエスの宣言が彼の魂を捉え、彼の魂が汚れた霊の支配を認めた。イエスの権威の教導がその人の魂を捉え、導いた。汚れた霊は口を封じられるのだと教え導いた。汚れた霊は何もできなくされた。出て行くしかない、大声だけを残して。汚れた霊は言葉を語ることができなくなった。声だけは出すことができたが、それは言葉ではなかった。言葉が出来事を起こす。言葉が我々を汚すこともあれば、言葉が我々を癒すこともある。良き言葉はわれわれを良きところへと教え導き、悪しき言葉は汚れへと誘う。良き言葉を語る魂であるか、悪しき言葉を語る魂であるかによって、口から出るものが変わってくる。自分も他者も汚す魂か、すべての人に良きものを指し示す魂か。その違いは、その魂を支配する存在の違いである。これを選ぶのは、我々の魂ではない。いや、我々の魂は、悪しきものを選ぶようになっているのだ。原罪の働きによって、我々の魂は悪しきものを選んでしまう。良きものを自分が選び取るのだと考えるとき、すでにその人は悪しきものを選んでいる。何もなし得ないと認識するとき、救い給うお方に祈るであろう。その人のうちからは良きものは出てこない。良き言葉も出てこない。人間におもねり、人間の思考に従った言葉しか出てこない。信仰的、神的言葉は出てこない。原罪の支配は、我々を必ず汚れへと導くように働いているのだ。それは汚れた霊への親和性である。

汚れた霊、汚れた言葉への親和性は、我々人間の自然的思考では解除することができないのである。原罪ゆえに不可能なのである。これを解除するのは、我々の外から来たる言葉。我々の自然的思考とは質的に違う言葉。我々が人間的論理で到達することができない言葉。それがイエスの権威の教導なのである。イエスの権威の教導において語られる言葉は、人間的論理の言葉ではない。人々が驚いたのは論理的に完成した宣言ではなく、人間的論理とは異なった宣言だったからである。「権威を持っている者のように」ということが語っているのは、権威者に似ているというだけである。人々は、イエスの権威を認めてはいない。イエスというお方を認めて、受け入れてはいない。驚いてはいても、聞き従うことはない。

聞き従う者は、聞き従わせられる者である。自分がイエスの権威を「~のようだ」と人間的に考えるとき、我々はイエスを認めているのではない。イエスを評価しているのだ。それゆえに、イエスの言葉の下に入ることはない。聞き従うと訳した言葉は、「~の下に」という接頭辞と「聞く」という言葉からできている。イエスの言葉の上に立とうとする者が「~のようだ」と評価する。イエスの言葉の下にあって聞く者はただ聞き従う。それだけのことが大きな違いとなる。聞き従う者は、イエスの言葉の下に入っている。自分が何者でもないからである。ただ純粋にイエスの言葉を聞いている。イエスの言葉がその人を支配し、教え、導く。宣言に聞き従う者は、権威の下にひれ伏している者である。何者でもない自分を認めている者である。そのとき、我々は汚れた霊の支配から解放され、純粋な言葉の支配に服している。神があなたを支配しようとする意志に従っている。あなたは神の言葉に対して自分を開くだけで良い。そのとき、あなたはすでに解放されている、汚れた霊の支配から、権威の教導によって。

祈ります。

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