「出で来たるイエス」

2018年2月4日(顕現節第5主日)

マルコによる福音書1章29節~39節

 

「わたしたちは行く、他のところの村や町を持っているところへ、そこでまたわたしが宣教するために。なぜなら、このことへとわたしは出で来たったのだから」とイエスは弟子たちに言う。今日の箇所の最初においても「会堂からすぐに出て来て、シモンの家へ行った」と記されていた。さらに、悪霊を追い出した後、「まだ暗い、朝極早くに、立ち上がって、彼は出て来て、立ち去った、荒野の場所へ。そしてそこで彼は祈り続けていた」とも記されていた。出で来たったイエスがシモンの家に入り、出で来たって悪霊を追い出した。再びイエスは出で来たり、立ち去り、祈る。ここでのイエスは「出で来たるイエス」とでも言うべき姿を示している。一つところに留まらないということよりも、他のところへと出で来たるイエスが語られている。最終的に、「このことへとわたしは出で来たったのだから」というイエスの出で来たった目的が示されている。

このイエスはどこから出で来たったのだろうか。もちろん、父の許から出で来たったのである。父なる神の許から出で来たったイエス。このお方は、出で来たった自覚をどこで得たのか。洗礼のときである。そこでは、父の許から聖霊が出で来たった、イエスのうちへ。聖霊を受けたイエスは、ご自身が神の息子であり、神の許から出で来たったことを自覚した。その後、荒野から出で来たり、神の福音を宣教し始めたのである。

イエスは宣教のために出で来たったと今日も宣言なさる。癒された人々が自分たちのところにイエスを留めようとすることを拒否するように、他の村や町を持っているところへ行くのだと宣言する。イエスは留まることを拒否すると考えるのは、留めようとする人間の視点である。イエスご自身から言えば、「わたしはここに出で来たった、父の許から」という自覚になる。出で来たるイエスは、常にどこかから出て、どこかへと来たるのである。永遠に出で来たる存在なのである。父なる神の許から、どこかへと出で来たる存在。これがイエス・キリストなのである。

留めようとする人間からは、「出て行く」イエスしか見えない。出て行くということは、そこを捨てることだと思える。捨てられたと思うがゆえに「出て行った」と受け取る。しかし、イエスは常にどこかへと出で来たったのだと自覚しておられる。つまり、行き着いたところ、来たったところを中心に考えておられる。出て行くことを考えているのではない。出で来たったことに目的があるからである。その目的が宣教であった。神の福音の宣教の目的のために、ここに出で来たったのだとイエスはおっしゃる。そこで宣教したならば、他のところへと出で来たり宣教する。出で来たり続けるのがイエスなのである。

どこかに至り続けるイエス。この生き方は、使徒パウロも受け継いでいる。フィリピの信徒への手紙3章12節以下で語っているとおり、「後ろのものたちを忘れて、前のものたちを得ようと努力して」という姿である。後ろのものたちを忘れることに重心があるのではない。前のものたちを得ようと努力することに重心がある。それはパウロ自身が「すでに得たのではなく、すでに終極に達しているのでもない」からである。前のものたちを得ようと努力するこの生き方こそがイエスの生き方であり、パウロが受け取ったキリスト者としての生き方である。それゆえに、イエスは「わたしは出で来たったのだ」と言うのである。それは、どこかに留まりたくないからではなく、どこかに至りたいからである。どこかに至るために出で来たったという自覚のうちにイエスは宣教している。

出で来たったという自覚は、未知のものへと向かう自覚である。すでに知っているものはそれで良い。知らないもの、出会っていない人、至っていないところ、これらを求めてイエスは出で来たる。イエスを村へ戻そうとして出て来た弟子たちも、出て来たままにイエスと共に、どこかへと出で来たるのである。イエスと共に生きるとは、どこかへと出で来たるように生きることである。誰かに出会うように出で来たること。出会った人たちとのいっときの出会いを繰り返しつつ歩むことが、キリストの道、キリストの歩み、キリストの生涯なのである。この歩み、この道が行き着く先は十字架の死であるかのように思える。しかし、そうではない。十字架の先にある復活、そして神の国、そこへと出で来たることを繰り返していくのである。十字架と復活の道は、十字架で終わらない道、復活で終わらない道、永遠の御国への道。

我々キリスト者の道もイエスの道と同じく永遠に出で来たる道である。どこかに到達してもなお、さらに向こうへと出で来たる。パウロは、「そこへと到達したところ、それを規範として歩む」と語っている。出で来たったところ、それを規範として歩む。それは隊列を作るような歩み。先立って歩み給うお方の隊列に連なる歩み。到達したと思ったところへと出で来たったということを規範として歩み続けるのである。どこかに到達したならば、到達したことで満足するのではなく、さらに前に、さらに向こうへと出で来たるように歩むこと。これがキリストの指し示し給う歩みなのである。キリストに従うとは、出で来たるイエスに従うことなのである。

我々人間の罪は、到達したところで満足することにある。これだけ労苦したのだからとそこに満足する。こんなにも良いところに到達したと満足する。そこから出で行くことをもったいないと思う。到達したところに自分が到達したと考えるからである。神が到達させてくださったと信じるならば、到達させてくださった神への信頼のうちに前に向かうであろう。努力するであろう。留まることは怠惰に至る。怠惰は罪である。導き給う神に従わないことである。神は永遠の御国へと導いておられるのに、我々は地上で満足してしまう。それが我々の罪の結果なのである。

もちろん、これで足れりと感謝することは大事なことである。しかし、そこに安住し、手放さず、すべてを抱えていたいと思うことは貪欲である。足りるを知ることは貪欲ではない。満たし給う神への感謝である。感謝したならば、そこからさらに導き給うお方に従って、前のものを得ようと努力するのである。そうしてこそ、満たし給うお方への感謝を生きることができる。後ろのものたちは神が至らせた神のもの。わたしのものではない。神は、わたしをさらに良きものへと導き給う。神こそは前進し給うお方。前進し給う神に従って行くことこそ、信仰の従順である。そのとき、我々はすべてのことを通して、神の御顔を探す道を歩むのである。

2018年度の主題聖句は、出で来たるイエスの道に従ってこそ、我々自身のものとなる。すべてのことを通して、神は我々を迎えようと顔を向けておられる。その顔のところへ出で来たることが、我々のこの一年の歩みであり、永遠の御国へと歩むことなのである。我々が歩む道は、イエスが歩む道。キリストが先立ち給う道。キリストが神の御顔を探して歩まれた道。十字架に至り、復活を越えて、御国へと続く道。この道の上に、神の御顔は常に、至るところに輝いている。すべてのことに神の御顔が現れている。落胆することにも、悲しみにも、苦しみにも、痛みにも、必ず神の御顔は輝いている。御顔を探し続ける者は必ず見出すであろう、輝ける御顔、慈しみの御顔、喜びの御顔を。これらの御顔こそ、イエスが宣教した神の福音である。出で来たったイエスは、神が御顔を近づけ給うことを宣教した。あなたが探し求める前に、神があなたを探し求めておられることを宣教した。神があなたの許へと出で来たることを宣教した。この宣教に従って、イエスは出で来たる。

今日、共にいただく聖餐は、出で来たるイエスご自身をいただくこと。前のものを得るように努力する力をいただくこと。キリストは、あなたのうちに出で来たり、あなたを前に向かう者として形作り給う。あなたの魂をキリストは包み給い、キリストご自身と同じように歩ませてくださる。我々は悲しみも苦しみも越え行く信仰のうちに、さらに前のものへと進み行こう、キリストと共に。

祈ります。

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