「実相顕現」

2018年2月11日(主の変容主日)

マルコによる福音書9章2節~9節

 

「なぜなら、何と答えるのか、彼は分からなかったから。なぜなら、彼らは狼狽した者たちとなっていたから。」と記されているが、ペトロは内実を伴ったイエスの外面の現れを目の当たりにして、狼狽してしまった。他の弟子たちも同じであった。狼狽するということ、非常に恐れるということは、未知のものに遭遇したときに陥る判断不能状態である。ペトロは弟子たちの判断不能状態を代表する者としてイエスに言う。「天幕を三つわたしたちは建てましょう」と。ペトロがわたしたちと言う「わたしたち」にはイエスも入っている。それなのに、イエスのためにも天幕を建てると言う。これだけでも矛盾しているが、天幕を建てることに意味があるのかと思える提案である。天幕を建てて何をしようと思っているのであろうか。ペトロはただ何か「答えなければ」と思ったのだ。ということは、ペトロはイエスの変容とモーセとエリヤの顕現を見て、何か問われていると感じたのだ。何か語られていると感じたのだ。それゆえに「答えなければ」と思い、とっさに脈絡もないことを提案したと言える。未知のものをどう受け止め、どう答えていけば良いのかペトロたちには分からなかった。これがイエスの実相顕現に接した直後の人間の反応なのである。

ペトロにとってイエスはこのような神的なお方ではなかったのである。ペトロたちがイエスを神だと信じていたならば、このような狼狽は生じなかった。ペトロたちにとってイエスは人間だった。自分たちと同じだった。それなのに、山の上でイエスの実相が顕現したのである。これはどういうことなのかと彼らは狼狽した。山上の変容と言われる出来事は、ペトロたちの目の前で、外形が変化したということではない。ここで使われているギリシア語はメタモルフォーという言葉で、メタ「変化する」という接頭辞がついたモルフォー「内実に従った形になる」という言葉である。単なる形を表す言葉はスケーマという言葉なので、ここではイエスの内実に従った形に変化したということになる。ということは、イエスの内実はこれまで外に現れていなかったのだろうか。現れを抑えていたのは何なのだろうか。

内実があったとしてもそれが抑えられているのであれば、現れるべきときを定めておられる神が抑えておられたと考えるべきであろう。イエスは、洗礼のとき神の宣言を聞いている。「あなたはわたしの息子、愛する者である。あなたをわたしは良く思う」と神がイエスに宣言したのだ。それゆえに、イエスは自らを神の愛する息子として出で来たったと自覚したのである。それこそがイエスの真実の姿、実相であった。この実相が外に現れたとき、ペトロたちには姿が変わって見えた。それまで知っていたイエスではなく、未知なるイエスを見た。それゆえに、彼らは狼狽したのである。

彼らはイエスをこのようなお方だったのだと受け入れたのではなく、自分たちが知っているイエスと違うイエスに狼狽した。どう捉えて良いのか分からなくなった。イエスは神なのか、あるいはモーセやエリヤのような死者として霊的に現れているのか。天幕を提案したのも、記念碑である石塚を建てるのではないから、そこに住まう場所を建てようとしたのである。これも意味不明の提案である。記念碑ではなく、住まいである天幕。それは思い出ではなくイエスやモーセ、エリヤがそこに住まうことを願ったということである。だとすれば、ペトロたちはモーセとエリヤにも神の霊的臨在を認めたのであり、イエスも霊的存在としてそこに住んでもらおうと提案したことになる。もちろん、狼狽した思考なのだから、何を答えるのか分からなかったのだが。

ペトロたちは、イエスの内実を知らなかった。いや、ペトロたちはイエスの外形しか見ていなかった。イエスの内実がどうであるかは分からない。彼らには見えていることだけが重要だったからである。しかも、イエスの見えているものが神によって人間的現れのみに抑えられていたのだから、ペトロたちには理解しようがない。

山上において、イエスの内実が現れ、それまで見えていた外形までも変化してしまった。これは何を意味しているのか。そして、雲が現れた後は、再び見知ったイエスに戻っていたのである。この一瞬の変化を、復活顕現がここに持ち込まれたのだと解釈する人もいるが、それは愚かな人間的解釈である。イエスが神であるがゆえに、復活したのだと主張するために、ここに変容の出来事を挿入したと考えることは、結果的に復活の出来事さえも人間的創作としてしまうことになるのである。これでは、イエスの内実の現れを受け容れることができなかったペトロたちと同じことになる。最終的に、復活顕現の繰り返しがあって、ようやく弟子たちはイエスの復活を受け入れることができたのである。そこから考えれば、弟子たちにしてみれば、山上の変容があってもなお、復活は信じられなかったということがつながらなくなってくる。イエスの内実を知っていたのだから、復活はすぐに受け入れられたであろうということになるのだ。しかも、イエスが弟子たちを戒めて、「見たことを詳細に語るな」とおっしゃったこととも通じなくなる。見たことを詳細に語ることによっては何も起こらない。見たことがイエスの内実の現れであることが了解できたとき、見たことが語っている言葉を聞くのである。

イエスが神の愛する息子としての自覚のうちに生きたことが、内実である。その内実の現れが山の上で生じた。さらに、復活はその内実が現れた出来事であった。とすれば、復活を受け入れるということは、復活から内実を聞くことが起こらなければならない。これがイエスが弟子たちの理性を開く霊の働きによって生じることなのである。雲の中からの声が「わたしの愛する息子である彼に聞け」と言うとおりなのである。

実相は神が見せる出来事である。モーセとエリヤが現れたというのも、「見せられた」という言葉である。神がペトロたちに見せた。それゆえに、彼らはモーセとエリヤを見た。それを客観的に表現すれば「現れた」ということになるのである。現れたことが見せられたことであれば、見せ給うた神の出来事として何事かを聞かなければならない。この山上の変容から何を聞くのであろうか。イエスに聞き従うことを聞くのである。

ペトロたちの視覚と理性判断では狼狽しか生じなかった。未知のものを受け入れることができなかった。しかし、イエスに聞き従うことは未知のものであろうとも信頼して従うということである。イエスは未知のものを現している。弟子たちには未知であるイエスの内実を現している。この未知なるイエスに聞き従うとき、弟子たちは復活顕現を受け入れることになるのである。父なる神は、この山の上で未知なるイエスの内実を見せてくださった。神の愛する息子であるイエスを見せてくださった。洗礼の際には、イエスの自覚のみであったが、この山上においてはペトロたちにイエスの内実が示された。それでもなお、ペトロたちは見たということにこだわってしまうであろうから、イエスは戒めておられるのである。

我々は未知なるものを受け入れない頑なな心を持っている。それが狼狽を生じさせる。そして、ただ一回の出来事では、弟子たちは狼狽を生じないようにはなっていない。それゆえに、復活顕現も40日に渡って繰り返されたのである。これは人間の頑なさ、未知のものを受け入れない固い理性のゆえである。山上の変容の出来事は、人間の固い理性を破壊するために起こった。イエスの実相は顕現したが、弟子たちは実相を捉えることなく、聞くこともなかった。復活の後に、ようやく聞く耳を開かれ、山上の変容を理解したと言えるであろう。

イエスに従う道は険しい。我々自身の頑なさを破壊するのは難しい。神がそれを破壊してくださらない限り、我々自身は破壊できない。その最初の現れが山上の変容である。イエスの内実に聞き続ける者であるようにと願われた父なる神の御こころを聞き、イエスに従って神の子である内実を我々も生きて行こう。これから始まる四旬節、イエスの十字架に耳を傾け、イエスに聞き従う道を歩んでいこう。

祈ります。

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