「熱情と敬虔」

2018年2月14日(聖灰水曜日)

ヨエル書2章12節~18節

 

「そして、ヤーウェは熱情を示した、彼の地に対して。そして、彼は痛みを感じた、彼の民の上に。」とヨエルは預言している。神ヤーウェの熱情と痛みを感じる敬虔さを語っている。神が敬虔であるというのはおかしいと思うであろう。しかし、この「痛みを感じる」という言葉ハーマルは、相手の状態に影響を受けて本人が感じる痛み、憐れみを表す言葉である。それが敬虔さの語源、純粋さなのである。神ヤーウェは純粋である。混ざり気のないお方である。それが熱情でもある。まっすぐに相手に向かう純粋さが熱情となる。熱愛、妬みとも訳されるカーナーというヘブライ語は、神ヤーウェの在り方を示す言葉である。熱情の神、妬む神と日本語に訳されるが、原語はエル・カンナーで、カーナーの神である。神は、ご自分の地、ご自分の民に対して、純粋に顔を向け給うがゆえに、痛みを感じ、憐れむお方である。ヨエルは、イスラエルの民の苦難に対して、神ヤーウェは熱情をもって純粋に顔を向け、痛みを感じてくださるお方だと預言したのである。この神こそが、イエス・キリストの父なる神である。それゆえに、マタイによる福音書6章1節以降でイエスが語り給う言葉は、神の熱情と敬虔に基づいて生きることを求めている。

他者への施しは純粋でなければならない。祈りは純粋でなければならない。断食に代表される悔い改めも純粋でなければならない。その純粋な心は神の熱情と敬虔に触発された心である。神の熱情と敬虔をいただいた心である。その心があるところに、あなたがたの宝もあるのだとイエスは言う。ということは、その心は神の心であり、神の心があるところに神の熱情と敬虔という宝があるのだ。この宝をいただくことで、我々は熱情と敬虔を生きることが可能となるのである。

我々人間は、イエスが詳細に述べているとおり、人に見せることばかりを考えてしまう。人に評価されることだけを求めてしまう。人からの評価がわたしの価値を上げると思う。それゆえに、自分の悪いところ、見せたくないところは隠して、評価されることをこれ見よがしに行うのである。ここに我々の罪がある。

神が純粋なお方で、我々に対して熱情と敬虔において関わってくださるお方であるということは、我々が同じように生きることを求めておられるということである。それにも関わらず、我々が熱情を注ぐのは自分の評価である。他者のために熱情を注ぐことなく、自分のために熱情を注ぐ。我々が敬虔さを自分の評価のために見せようとするのは敬虔ではなく偽善である。偽善にもかかわらず、我々は敬虔であると思い込む。他者を助けているのだから敬虔なのだと思い込む。その目指すところが、他者を利用して、自分の評価を増すということであるのに、自分がしていることは敬虔な行為なのだと言い募る。こうして、我々は神ヤーウェの熱情を自己愛に貶め、ヤーウェの敬虔を偽善に貶める。これが我々人間の罪である。

宗教的敬虔は、神ヤーウェの敬虔と熱情に促され、現れてくるものである。それは必然的に現れるのだから、評価や見返りを求めない。ただ神に献げられる。その行為は現れたあと、消え去る。残るのは、神への讃美のみ。これが宗教的敬虔である。しかし、我々人間の敬虔は、自己愛を土台としているので、すべて自分に取り集める。他者の痛みも自分のために利用する。他者の不幸は蜜の味。他者の幸いは妬みに変わる。自己への熱情が強すぎるからである。

神ヤーウェの熱情はご自身への熱情ではなく、被造物たる人間への熱情である。人間が苦しむことを見過ごすことができない。人間が争うことを放置することができない。人間が殺し合うことを見逃すことができない。それゆえに、神ヤーウェは裁きを行い、人間が神の意志に従うようにと導き給う。その裁きを逃れたいと思うがゆえに、自己の評価を集め回る人間。神の裁きの前に、ありのままの罪人として立つことができない人間。裁かれたくないがゆえに、他者に責任転嫁する人間。罪人であることを認めることができない人間が罪人なのである。

神の前で、自らが罪人であることを認める人間に対して、神ヤーウェは熱情と敬虔において顔を向けてくださる。神に顔を向けて、神の前で、自らの罪深さを神に告白する人間に対して、神は憐れみ深くあり給う。なぜなら、神は純粋であることを求めるから。我々が純粋であるとき、我々は自らの罪を認め、神の前にさらけ出し、抜け出せない苦悩の中から神に祈るであろう。そのとき、「ヤーウェは熱情を示した、彼の地に対して。そして、彼は痛みを感じた、彼の民の上に。」というヨエルの預言の言葉が我々の上に実現するのである。この祈りは真実であると神ヤーウェは受け入れ給う。受け入れた祈りに対して、神ヤーウェは働き給う。恵みを注ぎ、我々が罪の苦悩から解放されるようにと働き給う。それがキリストの十字架である。

キリストの十字架は、我々の罪からの解放を実現し給う。キリストは我々の罪を引き受け給う。十字架は我々人間が罪ゆえに神を拒んだ出来事である。しかし、神はその罪を引き受けてくださり、我々が罪から解放され、自由を生きることができるようにと十字架を立ててくださった。我々は、自由にされるとしても、神の意志に自由に従うために自由にされるのである。純粋に従うために自由にされるのである。それゆえに、我々は純粋に自らの罪を認めなければ、神の熱情と敬虔をいただくことはできない。不純な敬虔、不純な熱情から解放されるためには、純粋に不敬虔を認め、純粋に不純な熱情を認めなければならない。そのとき、我々は自らが純粋になり得ない罪の中にいることを知るであろう。そこから抜け出すことができない自分を知るであろう。その純粋な認識こそが悔い改めなのである。

この悔い改めにおいて、神の熱情をいただき、神の敬虔に働いていただくことができる。我々が神の御顔をまっすぐに仰ぐことは、神の前に罪を認めることなのである。神はその御顔を我々に向け続け、我々が神の御顔を仰ぐまで待ち続けてくださっている。このお方が熱情の神、純粋なる敬虔を生きておられる神。イエス・キリストの父なる神。

このお方の宝は、キリストご自身である。キリストがあなたのうちに形作られるならば、内実を伴った現れが生じるであろう。あなたがキリストの言と一つとされるならば、キリストの義があなたの義となるであろう。あなたがキリストの理性を与えられるならば、正しく自らと他者を認めることができるであろう。あなたのうちにキリストが形作られるために、福音であるキリストの言が与えられている。天に蓄えられている宝の倉から、キリストご自身の力があなたのうちに注がれる。そのとき、あなたはキリストのように生きる者へと変えられる。

罪深い人間が神の前に自らの力の無さ、弱さを明らかにするとき、神はその人を熱情と敬虔をもって包み給う。神の熱情がわたしを変えることができないはずはない。神の敬虔がわたしを変えることができないはずはない。神の力がわたしを神に従う者にするのだ。あなたは罪に支配され、罪の中に生きている。そのあなたを神は求め給い、救おうとしてくださる。キリストの十字架は、あなたの罪に向かって立っている。神があなたを救おうとしてキリストの十字架を立て給うた。神があなたを造り替えようとして、キリストをお遣わしになった。それはすべてヨエルが預言した神ヤーウェの熱情と敬虔に基づいているのだ。

四旬節を歩む我々は、神ヤーウェの熱情に食い尽くされたキリストに導かれて歩む。四旬節は、神ヤーウェの敬虔がキリストという形となって苦難を負い給うことを覚えるとき。神ヤーウェは我々のために熱情と敬虔を注ぎ給うのだ。憐れな罪人を憐れみ給う神の御こころが、我々の上に注がれている。キリストを仰ぎ、キリストの道を共に歩み、キリストの苦難を共に辿ろう。あなたのために注がれるキリストの血を思い、あなたのために裂かれるキリストの肉を思い、キリストがあなたのうちに形作られるように祈りつつ歩んでいこう。神はあなたを憐れみ、あなたを新たにしてくださる。

祈ります。

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