「給仕する天使」

2018年2月18日(四旬節第1主日)

マルコによる福音書1章12節~13節

 

「そしてすぐ、霊は彼を追い出した、荒野へと」と記されている。イエスは洗礼を受けた後すぐに、荒野に追い出された、霊によって。これはどういうことであろうか。荒野に追い出す目的は、サタンによる試しを受けること。その内容についてはマルコは何も報告しない。そして、こう記す。「そして、彼はいた、野獣たちと共に。そして、天使たちが彼に給仕し続けていた」と。天使たちが「仕えていた」と訳されているが、ディアコネオーというギリシア語は給仕することを意味している。食卓の脇に立って、食事を提供し、必要なものを提供するのが給仕である。一般的には「仕える」と訳されるが、食卓のために仕えているのがディアコノス給仕係なのである。天使たちは、イエスの給仕係として仕えていたということである。

しかし、何を給仕していたのであろうか。神の言葉である。それを、マタイやルカははっきりと記しているが、マルコは「給仕し続けていた」と記しているだけなのである。天使たちは神の言を給仕して、イエスが生きることを支えていた。他の福音書でイエスがおっしゃるとおり、「パンだけによって生きるのではないであろう、人間というものは」ということである。神の言によって生きるのが人間なのである。

天使たちは、イエスに給仕し続けていた、神の言を。神の言を食べることで、イエスは野獣たちと共にいることができたのである。もちろん、野獣たちと共にいたのはイエスである。イエスご自身が野獣たちと共にいることを選んだとも言える。イエスが主体的に野獣たちと共にいた。そうであれば、野獣たちはイエスに共にいていただいたのである。野獣たちは主体ではない。イエスが主体である。主体であるイエスが、神の愛する息子としての自覚を生きておられたがゆえに、野獣たちはイエスが共にいてくださることを喜んでそこにいたのである。

しかし、最初に語られていたように、イエスは荒野へと追い出された、霊によって。ということは、イエスは主体ではなく、追い出した霊が主体である。追い出した霊は、イエスが試されることを目的として追い出したのだから、イエスは神の霊の働きを拒否することなく、従ったのである。このイエスの従順において、すべては神の出来事として生起している。それゆえに、荒野における出来事は、神の世界の平和なる出来事として生起しているのである。この神の平和を供給するのが、みことばであり、みことばを給仕する天使たちである。

みことばを給仕する天使たちは、神に仕えて給仕する。神が備え給うたみことばをイエスに給仕する。イエスはみことばをいただいて、神の平和の世界を生きている。主体的に生きている。それゆえに、野獣と共にいることも可能なのである。神の言が供給されるところでは、神の平和が支配する。神への信頼である信仰が支配する。イエスは、天使たちに給仕されたみことばによって信仰のうちに荒野にいたのである、四十日間。その間の出来事は、荒野であろうとも神の世界である出来事だった。それゆえに、イエスが荒野に追い出された目的であるサタンの試しは、神の世界を信頼するか否かの試しである。神の世界を信頼するならば、如何なることも害することはない。信頼しないがゆえに、我々人間は害するものがあると思い、それを取り除こうとして、結果的に害されてしまうのである。神の世界は我々人間を害することはない。この信頼を生きることを試されたイエス。このお方は、十字架の死に至るまで神を信頼した。十字架を越えて、信頼はイエスを生かした。神の言がイエスを生かした。天使たちの給仕は、荒野の後も十字架を越えて、イエスを支えた。イエスに給仕し続けた天使たちは、ゲッセマネのときも十字架の上でもイエスに給仕していた。それゆえに、イエスは「神の意志がなる」ことを信じて、十字架を引き受けたのである。その始まりが荒野の誘惑において起こっていたのである。

この誘惑、試しは、霊が追い出した目的であった。それゆえに、霊はイエスが試しに揺さぶられないことを予知していたと言えるであろう。神の霊なのだから、すべてを予知して、行ったのである。イエスが霊によって追い出されたことを認識していたならば、イエスご自身はサタンに試されても揺さぶられることはなかったであろう。まして、天使たちがみことばを給仕していたのだから、揺さぶられることはない。神の言だけを食べていれば、我々も揺さぶられることはないであろう。しかし、我々が食べるものは、神の言葉だけではなく、人間の言葉、人間の慣習、人間の思想でもある。それゆえに、我々は神の言葉への信頼を失い、確かさを失ってしまうのである。信仰が確かさを表すアーメンと同根であるエムナーである意味はここにある。

我々が確信するというよりも、神が与え給う確かさをいただいて信仰を起こされるのである。神が確かさを与え給うことを受け取るだけが人間にできることである。従って、我々が自分で確信すると思っている信仰は確かではなく、神が与え給う信仰が確かなのである。確かなお方が与えてくださるのだから確かである。不確かな人間の確信は不確かである。人間が信じていると思い込んでいるのは幻想である。ルターは人間の信仰を夢だと語った。夢や幻想が人間が自分で信じると思っている信仰である。真実に確かな信仰は、神が与え給う信仰である。この信仰は、我々が獲得するのではない。神が与えるのだから、向こうからやって来るのである。洗礼のときに、天が裂けて、霊が鳩のような姿で降ってきたとイエスが見たとおりである。

神からの確信が信仰なのである。我々がさまざまに試して、これこそ大丈夫だと思えることを信じるというのは人間的な信仰である。これは信仰ではない。神が確信を与え給い、信じさせてくださるものが信仰である。イエスは、天からの声を聞き、神からの確信に満たされた。そこから、荒野へと追い出されたイエスは、霊によって追い出されたのだから、霊に従って追い出しを引き受けたのである。この引き受けによって、イエスはすべてを神の意志の現れとして、荒野で生きたのである。

我々人間は、常に試されている。その試しは、我々の夢や幻想である信仰を促すサタンの試しである。我々は試しに流され、上手く行かなくなって、ようやく自己を省察する。幻想から解放され、夢から覚める。自己の思い込みに信頼できないことを知るならば、自己に絶望するであろう。自己の信じる力など信頼できないことを知る。そこから、神への祈りが生じるのである。自己の外なるところから来たる信仰に向けて、我々は開かれるであろう。信仰は神から来たる。イエスは、荒野において、この信仰のうちに生きておられた。神のみことばへの信頼において生きておられた。天使たちはみことばを給仕したが、給仕されることを喜び受け入れたイエスは、みことばが自分自身を守ること、生かすことを信じていた。それゆえに、イエスは荒野から宣教の生涯へと出て行ったのである。イエスが信じた神の生かし給う御心がみことばのうちに宿っている。

イエスの語り給うみことばは、この荒野の試しにおいて、イエスのうちに十分に供給されていた。神が主体として満たし給う時であるカイロスが満たされてしまっているとイエスは宣教した。神が主体として近づき給う神の支配が近づいてしまっているとイエスは宣教した。この宣教は荒野においてイエスが生きていたみことばの宣教なのである。イエスはご自身が神の言を給仕され、満たされたところからこの世に出て行かれた。いや、派遣された、神によって。イエスは神の派遣を荒野の試しにおいて確信し、天使たちが派遣されたように、ご自身も人間たちにみことばを給仕する者として生きてくださった。天使たちに給仕された者として、弟子たちに給仕するイエス。このお方の給仕に与った者は、給仕する者としてこの世に派遣される。

今日共にいただく聖餐は、見えるみことばとしてのイエスご自身である。イエスが我々に給仕してくださるみことばをいただき、この世に給仕する者として我々は派遣される。イエスの給仕に与った者として、この世に給仕して行こう、神の言を。

祈ります。

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