「イエスの至聖所」

2018年3月4日(四旬節第3主日)

ヨハネによる福音書2章13節~22節

 

「しかし、その方は、彼の体の至聖所について語った」とヨハネは報告している。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と訳されているが、原文では「彼の体の至聖所」となっている。「至聖所」とは、聖所のさらに奥にある神聖な場所のことで、神の臨在する場所のことである。神殿と一般的に訳される言葉は、ヒエロスであるが、これは建物を表す言葉である。ヘブライ語では神の家ベイト・エロヒームと言われる。神が住み給う家を神殿と呼ぶのである。神殿の領域は建物としてのヒエロスと神の臨在するナオスに分けられている。ナオスは、ヘブライ語でデビールと言う。もちろん、至聖所であるナオスやデビールも場所の名であるが、そこに神が臨在する場という意味が含まれている。従って、ここでヨハネが語っているのは、イエスの体の至聖所のことであり、イエスが三日で起こすと言われたのは、イエスの体の至聖所についてだったのだとヨハネは語っているのである。イエスの至聖所は、イエスのうちに神が臨在する場である。イエスご自身のうちに神が臨在し給うところがあり、そのナオスを三日で起こすと言われたのであるとヨハネは報告しているのだ。

しかし、実際に至聖所を起こすのはイエスではない。父の熱情である。父の熱情が宿っているのが至聖所ナオスなのである。従って、ナオスを起こすほどの父の熱情がイエスを食い尽くしているので、イエスご自身は熱情そのものとなって、神殿を浄めた。この浄めが父の熱情から発しているという意味である。聖書が語るとおり、父なる神の熱情は妬みとも訳されるカンナーというヘブライ語であり、ギリシア語ではゼーロスである。これらの言葉が表している事柄は、純粋さであり、敬虔さの土台である。神に従う敬虔さは、純粋な神の熱情を受け取っている者の在り方である。神に顧みていただける者ではないと認識する罪人が、父なる神の熱情によって救われるとき、自らの功績を主張することはできず、ただまっすぐに自分に顔を向けてくださっている神の熱情を受け取るのである。そのとき、罪人であることがかえって神の熱情を感じ取ることになる。このようなわたしを神は顧みてくださったと感じ取るとき、その人は神の熱情を受け取るのである。

イエスは、この神の熱情を洗礼の際に受け取った。洗礼は己に死んで、神に生かされる出来事だからである。イエスも洗礼において、父なる神の熱情が聖霊として御自分の上に降ってくるのを見たのである。この突進するほどの熱情を感じ取ったイエスのうちに、神の至聖所ナオスが起こされたのは当然である。イエスの死という十字架の出来事は建物を破壊するようにイエスの体を破壊した。イエスの体の破壊と同時に、ナオスである至聖所も破壊されたと思うであろう。ところが神の熱情が失われない限り、ナオスはいつでも起こされる。それゆえに、イエスはナオスを三日で起こすとおっしゃったのである。そのとき、イエスは父なる神の熱情カンナーと一つとなっていた。それゆえに、イエスご自身が自分の体の至聖所を起こすとおっしゃったのだ。

ユダヤ人たちは、イエスの言葉を聞いて、この神殿という建物は46年もかかって建てたのに、三日で建て直すのかと、イエスを嘲笑った。イエスは、46年もかかる建物建設では起こり得ない神の霊の臨在と復活を語ったのに、ユダヤ人たちは建物のことしか考えることができなかったのである。人間が認めるのは建物の建設に要した時間と労力だけである。大きな建築物は時間も費用もかかる。しかし、建築物は建築物であり、そこに魂が宿るか否かは建物自体には関わりのないことである。至聖所は神ご自身の臨在なのだから、建物とは関わりない。それでも、建物の中の至聖所に神が臨在し給うということは、神ご自身の臨在する熱情、民を顧みたいという熱情があるということである。この熱情を抜きにしては、神殿という建物はただの建物なのである。従って、神殿が神の熱情に包まれるためには、人間的なものが排除されなければならない。人間的な思惑が取り除かれなければならない。それが今日のイエスの神殿の浄めなのである。

神殿を聖別すること、神に献げることは、人間のために神殿を使用しないということである。もちろん、神はすべてのものを人間のために使って、我々人間を支えてくださる。しかし、人間がすべてのものを自分のために使うことは、神を蔑ろにすることなのである。あくまで神が人間のためにお使いになるのであって、我々人間が自分のために使うのではない。我々人間が建てた建物は神に献げられなければならない。そのとき、神がわたしたちの祈りを聞くためにお使いくださる。わたしたちの祈りに応えるためにお使いくださる。これが神殿が建てられるということである。真実に建物が神に献げられているとき、神殿の至聖所には神が臨在し給う。至聖所であるナオスが神の熱情に満たされる。これがイエスが三日の後に起こすと言われたナオス、神の熱情の宿る場である。この神の熱情の場との交流は、信仰が媒介するのである。神が喜び給うのは犠牲ではなく、憐れみである。犠牲に宿る真実をこそ神は喜び給う。我々人間の憐れみの行為は、自分のために使用しない行為でなければならない。他者のために使用する行為であるとき、その行為は純粋になり、見返りは求められない。神はこの純粋さを喜び給う。ただ献げられる行為を喜び給う。

イエスが商売を排除したのは、ただ献げられるものではないからである。人に必要なものを提供して見返りを求めるがゆえに、商売は純粋ではない。見返りのために提供することになるからである。もちろん、それが許される場所は別にある。神殿において、商売が行われるならば、神殿そのものが見返りの場所となってしまうのである。それは神殿ではない。犠牲によって、神の顧みを得ようとすることは、結局見返りを求めて神に献げる行為である。犠牲のための動物を売ること、献金のための両替をすること、それらの商売は神殿が見返りの場所となるように働いているのである。犠牲獣の売買、両替自体が商売であるというだけに留まらないのだ。それによって、神殿そのものに詣でる人たちが神と商売することになる。それこそがイエスが批判した「父の家を商売の家とする」ということである。

イエスが「この神殿を壊せ」と言われたのは、商売と化してしまった神殿を壊せと言われたのだ。そこで商売している者だけではなく、商売そのものとなっている神殿を壊せと言われたのだ。見返りを求め続けるための建物を破壊せよと言われたのだ。そのとき、神殿の真実が何であるかが明らかになるであろうということである。神殿の真実は父なる神の熱情なのである。父なる神が求め給うまっすぐな祈りなのである。父なる神にまっすぐに向かう純粋な心なのである。このために、イエスはご自身の体を献げ給う。十字架の上に献げ給う。十字架において、イエスは御自分の体を献げ、神の至聖所となり給う。神の至聖所ナオスが復活するために、イエスは体を献げ給うのだ、神の使用のために。

我々人間は、如何なることであろうとも、自分のために使用する。自分のために、困窮している人も使う。善い行いをした自分を神が認めてくださるようにと使う。そのとき、我々のうちには神の熱情は宿っていない。宿り得ない。我々人間のうちには宿り得ない父の熱情を宿るようにしてくださるのがイエス・キリストなのである。

十字架の上でご自身の体を神に献げ給うたイエスは、その死を通して神の真実に向かう生き方を示してくださった。我々人間のために、ご自身の体を献げるほどの熱情を生きてくださった。このイエスが、我々のために差し出してくださるご自身の体と血は、我々のうちに神の熱情を注いでくださる。神がこのわたしのうちに住まいたいと願ってくださる熱情を伝えてくださる。キリストの体と血に与る聖餐を通して、我々のうちにも至聖所が開かれる。イエスの体の至聖所が開かれる。神はあなたのうちに熱情をもって住まい給うお方。あなたを熱情に包み給うお方。わたしのすべてが神の熱情に支えられ、キリストのように神に従う道を歩めますように、この四旬節をまっすぐに歩み行こう。

祈ります。

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