「天から降る者」

2018年3月11日(四旬節第4主日)

ヨハネによる福音書3章13節~21節

 

「天へと上った者は誰もいない、天から降った者、人の子以外には」とイエスは言う。イエスはニコデモに語りつつ、次第にすべての人間に語ることに移行していく。個別的な言説が一般的な言説に移行する。天から降ることで、個別的な言葉を語ることが起こり、天へと上ることで一般的な言葉を語ることが起こる。地上においては個別的に語り、天上においてはすべての人間に向けて語ることが起こる。高く挙げられることにおいて、汚されたすべての人間を癒す青銅のヘビのように、天へと上ることにおいて、すべての人間へと語ることが起こる。その言葉ロゴスはすべての人間を癒す言葉。闇から解放する言葉。光の方へと呼び出す言葉。信仰を与える言葉。ただありのままに受け取る者には信仰が起こされ、受け取らず闇に隠れる者には裁きが生じる。

イエスご自身は誰も裁かない、救うために来られたから。しかし、イエスが語った言葉を受け取らない者は、信じることなく、自ら裁きを生きてしまう。イエスの言葉は、救う言葉でありながら、裁く言葉である。その言葉を受け取るか受け取らないかによって救いと裁きが生じる。それは、モーセの時代に荒野で高く挙げられた青銅のヘビと同じ。ヘビを仰ぐ者は癒され、仰がない者は癒されなかった。ヘビを信じるというよりも、それを与え給うたお方の意志を受け取っているか否かによって分かれてしまうのである。この分かれてしまうことそのものが裁きなのである。

裁きとは正しく分けることである。悪しきことは悪しきこととして定め、良きことは良きこととして定めること。これが裁きである。その基準は神の律法であるが、この基準に従って自らを悪しき者として認める者は正しい者とされる。自らを悪しき者として認めないならば悪しき者とされる。一般的な裁きとは正反対になる。一般的裁きは、悪しき者と認めたならば悪しき者として裁かれる。それゆえに言い逃れをすることに躍起になる者も現れる。そのような者は端から見ても言い逃れていると分かるものである。むしろ、言い逃れせず、自らを悪しき者として認める者は正しいところに立っていると分かるものでもある。この世の法で裁かれないように逃れたとしても、神の律法においては裁かれてしまう。言い逃れする者は闇に隠れているからである。こうして、自ら裁きを招き寄せることになる。

我々キリスト者が罪を認めるとき救いに与っているというのは神の律法、神の裁きにおいてである。この世にあっては、救われないまま裁かれることになると思えるであろう。ところが、正しく自らを認めている者は、この世にあっても悔いていることが明らかになるのだから、いずれ救われる道を歩むであろう。そう考えるならば、この世にあっても、神の下にあっても、裁かれるべき自らを認める者は正しい者として救われるのである。救われない者は、どこまでも闇に隠れ、逃げ回る存在なのである。この人は、光のところに来ることがないと言われている。

闇のところに向かう存在は、光よりも闇を愛したと言われている。その人は、自らの悪しき業が照らされて明らかにならないように、光を憎み、闇を愛するのである。闇を愛するとは、自らも自らを認めることができない闇を愛するのである。それゆえに、自らを隠している、自分自身に対しても。自分を偽るということである。自分自身を言いくるめるのだ。わたしは悪くない、あの人が悪いのだと他者の所為にする。わたしがあのようなことをしたのは仕方なかったのだ。そうさせた世間が悪いと社会を批判する。他者の所為にして、社会を批判しても、自らが行ったことは正当化されるわけではない。にも関わらず、そうするのである。自己自身をも言いくるめて、闇に隠れる。これが罪人である。

この罪人を照らすために、イエスは来られた。光としてイエスは来られた。来たり給うた光であるイエスは、その語る言葉ロゴスにおいてすべてを照らし給う。照らされて、明らかにされた自らを受け入れ、認める者はイエスのロゴスゆえに、救われている。光となっている。これが永遠のいのちを持つということである。

永遠のいのちとは裁かれないいのち、分けられないいのちである。我々人間が罪に陥ったとき、神の世界を分けることにおいて罪を犯した。神の世界は善なる世界である。にも関わらず、その世界を自らの基準において分ける善悪の知識を得ようとして、人間は罪に陥った。自らが裁く者でありたいと願って、罪に陥った。神の前で、自らが裁かれるべき存在であるというところに生きることができなかった。神を越えたいと願った。そこに罪が入り込んできた。その自らの罪を認めることができなかった。ここに闇が生じていたのである。この世界へと神は独り子イエスを派遣し給うた。

派遣されたイエスは、天において父の子として生きておられたところから、地上に降った者である。天において持っていた永遠のいのちを、降った地上においても持っておられるお方である。そのお方のうちに生き、信じる者は、そのお方に包まれて永遠のいのちを持つ。そのお方が死なないのではなく、死んで復活するのだが、それは永遠のいのちを生きておられるからである。永遠のいのちは神のいのち。神が永遠であるように、この世の経過時間に拘束されない。この世の経過時間によって古くなることもない。この世の経過時間において死んでも生きる。

永遠のいのちは質的な新しさを持っているので、常に新しい。常に新しいいのちを生きるということは、常に自らを問い、自らがこれで良いのかと悔い改めていく歩みである。マルティン・ルターが「生涯悔い改め」と述べたのは、このようなキリスト者の生涯の歩みを語ったのである。自らを正しく認識している者は、裁かれることはない。すでに自らを裁いているからである。自らを闇に隠している者は、裁かれる。自らの裁きを逃れようとするからである。こうして、この世においても裁きを生きることになるのが罪人なのである。しかし、罪を認めることができるように導かれた者は自らを裁いているのだから、神の前に正しい者として生きることが可能となる。神の前に正しく生きることが永遠のいのちを持つということである。独り子なるイエスをこの世に与え給うたお方の意志を受け取っているのだから、イエスと共に永遠のいのちをいただいているのである。

そのような者は、光のところへやって来る。光に照らされることを受け入れる。ありのままの事実を受け入れる。その人の働きは、「神に導かれてなされたということが、明らかになる」と新共同訳は訳しているが、原文では「神のうちで、働かれてしまっていると明らかになる」となっている。悪しきことが神に導かれて行われたと誤解されてしまうかも知れないが、実は「神のうちで働かれてしまっている」働きだと言われている。神のうちに包まれて、神が働いてくださっている働きだという意味である。悪しき働きをした場合でも、神のうちにあって働かれてしまっているならば、神の意志に反した働きをなしてしまったと認めることになるということである。たとえ悪を行ったとしても、その悪を行ったわたしが神のうちにあるならば、神の意志に反して行ったことを認めるであろう。認めることができたとき、その人は悪しきことをなしたのではあるが、神が認めさせるように働いてくださったと信じるところに導かれる。こうして、我々が罪を認めるとき、神の意志を善きものとして認め、自らの働きを悪しきものとして認めることが生じるのである。そのとき、我々は神のうちで生きている。永遠のいのちのうちに生きている。

このいのちを与えるためにキリストは十字架を負ってくださった。我々が自らの罪を認め、悔い改めて、いのちを得るために十字架を負ってくださった。イエスは荒野の青銅のヘビ。高く挙げられることで、ご自身を仰ぐようにと招いているお方。神は、イエスを地上へと降らせたまい、すべての者がイエスを仰ぐようにと高く挙げる。天から降りし者イエスの十字架が天へと導き給う。あなたを照らし給う光の前にありのままで歩み行こう、四旬節のときを。

祈ります。

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