「イエスのロゴス」

2018年3月18日(四旬節第5主日)

ヨハネによる福音書12章36節b~50節

 

「わたしを廃棄し、わたしが語った言葉を受け取らない者は、彼の裁きを持っている。わたしが語った言葉、それが彼を裁くであろう、終わりの日において」とイエスは言う。イエスを廃棄するという言葉が使われている。この言葉は「拒否する」とも訳されるが、第一の意味は「廃棄する」である。要らないものとして廃棄するということであるから、イエスを必要ないとして捨て去ることを意味している。単に拒否するよりも強い言い方である。

十字架自体が、架けられた者を廃棄することであるがゆえに、十字架に架けることを意味していると言える。また十字架のイエスを廃棄するのであり、復活のイエスも廃棄するとも言えるであろう。そういう意味において使われている「廃棄する」という言葉であれば、イエスを廃棄する人は十字架を廃棄するのであり、信仰を捨て去るのである。十字架なしでやっていけると思っている人に信仰はない。まして、そのような人は自分を省みることもない。その人がイエスの語った言葉を受け取らないのは当たり前である。イエスの語った言葉を受け取らないということは、イエスのロゴスを神の言として受け取らないのであり、イエスのロゴスによって自らを省み、悔い改めることもないということである。

イエスのロゴスを受け取らない人はどのような人なのだろうか。自分の力を信じていたり、他の神を信じていたり、イエスなど必要ないと思っている人である。さらに、イエスに語る言葉を与え給うた父なる神をも必要ないと思っている人である。反対に、イエスの言葉を受け取っている人は、イエスの言葉に照らされた自分自身の姿をまっすぐに見詰める人である。その人は、自分の罪を受け入れ、罪を認め、自分の力では神に受け入れられることはないと認める人である。そのような人は、神に祈るであろう。イエスの言葉を受け取っている人は神の前にひれ伏し、祈る人である。その人は正しく自分を認識しているので、裁かれることはない。イエスが語った言葉のとおりに認識しているからである。反対に、イエスの語った言葉を受け取らない人は、正しく自分を認識していないので、裁かれるであろうと言われているのである。しかも、終わりの日において、裁かれるであろうと。

終わりの日における裁きとは最終決定である。覆すことができない裁きである。覆すことができない状態に自分で自分を定めてしまっているということである。信じることができないということは、自己の力に頼っているからであるが、どうして自己の力に頼るのであろうか。イザヤの言葉にある通り、神が彼らを頑なにしたからである。それは悪しき器である自己を認識しないようにすることである。悪しき器である人間は、自らが悪しき器であると認識していないために、神の言を必要ないと受け入れず、神の言がその人を悔い改めに導く力を拒否するのである。反対に、神の言を聞いて、自らが悪しき器であると認識する者は自己の力に絶望している人である。わたしが善きことをなし得ないと絶望している人である。自己自身を弾劾している人である。その人は、自己を愛していないのではなく、真実に愛しているがゆえに自己を正しく認める。自己弾劾しない人は、自己を正しく認識していないので、真実には自己を愛していない。なぜなら、力ある自分を愛しているからである。力ある自分であることを愛しているからである。力なき自分は愛せないと思っているのである。そのような人は、結局誰も愛してはいない。他者も神も愛していないだけではなく、自己を憎んでもいる。しかし、自己を憎んでいる自分であるにも関わらず、自己を愛していると思っている。自己も他者も神も世界も愛していない者は、すべてを必要ないと廃棄しているとも言えるのである。世界を拒否し、造り主を拒否することで、自己を守ろうとしているかのようである。しかし、自己を憎んでいる。こうして、自己が憎んだように終わりの日に裁かれるのである。

自己を憎むということは、神が造り給うたわたしを憎むのだから、神の創造を否定することである。どうして、このようなわたしに造ったのかと神の創造を否定する。こうして、神から離れ、すべてを自己の力によって成し遂げようとする。そのとき、人間は自分自身を裁いている。憎む自己が自己を裁いている。神の言を受け取らない自己が自己を裁いている。こうして、神の言、イエスのロゴスがその人を裁くであろう、終わりの日において、とイエスは叫んだのである。

イエスは叫んだと言われている。叫ぶということは、これこそ聞いて欲しいと叫ぶのである。叫ばないなければ、聞き入れないだろうと叫ぶのである。叫ぶということは、聞いて欲しいと願っていることである。聞き入れない人も、受け取らない人も、聞いて受け取って欲しいと叫ぶのである。受け取って欲しいから、聞いて欲しいから叫ぶ。このイエスの思いこそ、イエスのロゴスなのである。ここで叫んでいるイエスの言葉を、ここまでして聞いて欲しいのだと受け取る者は聞いている。この叫びこそ、イエスが裁かないと言っておられる心なのである。この心を受け取る者は聞くであろう。聞き従うであろう。受け取り、自らを省みるであろう。ここまでして、わたしのことを思って、叫んでくださることへの感謝を持って、受け取る者はイエスのロゴスによって変えられていると言える。

イエスのロゴスは裁くためではなく、救われるために語られるロゴスである。誰も救われない者がいないようにと叫ぶロゴスである。誰もが自分を正しく認識し、自分の力に絶望し、神に祈るようにと叫ぶロゴスなのである。このロゴスが一人ひとりを裁くのは当然である。すべての人がこのロゴスを聞かされている。すべての人がこのロゴスによって救われることを願われている。救いを願うイエスのロゴスによって、すべての人は救われる道に置かれている。この道から離れてしまう者は、自分が置かれた道を認めず、こんな道ではないと別の道を選ぶ者である。そのような人は裁かれて救われない。救われるようにとロゴスを叫ぶイエスを必要ないと捨て去るからである。

イエスを捨て去る者は、自らも捨て去っている。救われないように捨て去っている。自分で自分を救おうとしているからである。救われるということは、わたしの力ではなく、神の力によって救われるということである。しかし、ロゴスであるイエスを捨て去り、すべてを自分の力によって成し遂げようとする者は、闇の中に留まることになる。

闇の中では、誰も見えない。他者を見ることはできない。神を見ることもできない。自分を見ることもできない。こうして、光であるイエスのロゴスに照らされることなく、すべては闇の中に留まる。光であるイエスを受け入れる者は、イエスのロゴスに照らされているすべてを認め受け入れる。その人が受け入れた世界は、善き世界である。光に照らされて、あからさまにされた世界は、神のありのままの世界である。神のありのままの世界こそ真理の世界。隠されることなく現れている世界。何ものをも否定することなく、すべてを受け入れている世界。この世界が神の世界なのである。

神の世界はすべてをありのままに保持する世界。この世界の中に自己を見出した者は、イエスのロゴスゆえに救われている。イエスのロゴスが照らし出した世界を受け入れているからである。すべてを受け入れる世界に受け入れられていることを認識している者は、自らもすべてを受け入れて安心している。善きものしかない世界だと受け入れて安心している。この世界へと我々を開くために、イエスは来てくださった。十字架を負ってくださった。イエスの体と血は、この世界を開く鍵。イエスの体と血に与って、我々は神によって救われ生きる力を与えられる。今日もまた、イエスの体と血があなたのうちに入り来たり、あなたを造り替えるであろう。あなたを生かすであろう、神の子として。この世界へと開かれていることを感謝して、キリストの体と血に与ろう。あなたは神に愛されている者。あなたのために叫び給うイエスのロゴスを聞かされている者。イエスのロゴスの光の中に置かれたありのままのわたしを生きて行こう。祈ります。

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