「高きにおける救い」

2018年3月25日(枝の主日)

マルコによる福音書11章1節~11節

 

「いと高きところにおいて、我らを救い給え」と群衆は叫ぶ。「ホサンナ、エン、トイス、ヒュプシストイス」とギリシア語に訳されているが、「エン、トイス、ヒュプシストイス」とは「いと高きところにおいて」という意味であり、「ホサンナ」とはヘブライ語では「ホシャーナー」であり、救うという言葉「ヤーシャー」の希求法に接尾辞「ナー」我々が付いた言葉である。ホサンナとは、「我らを救い給え」という叫びなのである。いと高きところにおいて我らを救い給えと叫ぶ群衆は、もはや「ホシャーナー」の叫びが意味することを知らないかのようである。しかし、彼らが叫んでいるのは「救い給え」という叫びなのである。しかも「いと高きところにおいて」と叫ぶ。地上においてではなく、高きところにおいて救い給えと言うのである。これはどういうことであろうか。

自分たちの生きている地上における救いではなく、高きにおける救いを願っている叫び。この叫びは、来たるべき国が天から来たることが救いであるという意味である。しかし、来たるべき国はすでに天になければならない。天にすでにあるからこそ、来たるべき国が救いをもたらすのである。それゆえに、高きにおける救いが確立していることを信じて叫ぶ群衆なのである。

我々が救いを願うとき、その救いは地上における救いではなく、天上における救いを目指しているということである。どうして、我々は天上における救いを目指すのであろうか。アウグスティヌスが言うように「あなたはあなたに向けてわたしたちをお造りになった。それゆえに、あなたの懐に安らうまで、安きを得ないのです」という創造の目的から考えるべきである。神が我々人間をお造りになったのは、神に向かうようにとお造りになったのである。それゆえに、地上において平安を求めている我々は、天上における平安を得ない限り、真実に平安を生きることはないのである。地上における平安は、天上における平安を地上的に理解し、求めているに過ぎない。地上的平安を求めるということは、自分の生活が平安であることを求めることである。人間は自分の生活が平安であればそれで良いのである。他人がどうあろうと構わない。むしろ、他人がわたしの平安を妨害するとも思ってしまう。こうして、我々が地上において求める平安は、わたしの平安であり、世界の平安ではないことになる。我々に争いが生じるのも地上における自分の平安のためである。このような平安は自己中心的な平安である。争いの元凶となる平安である。こうして、国家レベルの救いは、誰かが平安を与えてくれることで実現すると考えられることになる。それゆえに、メシアの来臨が祈り求められてもきた、ローマを打ち負かすために。

ところが、群衆が祈っているのは地上における救いではなく、天上である「いと高きところにおける救い」である。この救いは、人間的な次元の救いではない。地上的な救いではない。国が回復されることではなく、新しい国が天上からやって来ることを求める救いである。このような救いは天上において確立している救いである。天上において確立している救いを群衆は求めたのであろうか。

群衆の叫びはただ祭りの慣習のように叫ばれていたことであろう。その本来の意味が理解されないままに、叫ばれていた。それでもなお、彼らが叫んでいる祈りは真実の言葉である。言葉の意味が理解されていないとしても叫ばれている言葉は真実である。天における救い、高きにおける救いを求める祈りは真実の祈りである。自分たちが何を祈っているのかも分からないとしても、真実である。我々が主の祈りを祈り、使徒信条やニケア信条を唱える場合も、理解して祈り、唱えているわけではない。分からないままに唱えている。洗礼を受けていても、分からないままに唱えている。しかし、唱えている言葉自体は変わりなく真実である。我々が誤解して祈っていても主の祈りは変わりなく、主イエスが教えてくださったとおりに祈られている。それで良いのかと思うであろうが、我々人間の間の慣習にしても同じことなのである。最初の意味を見失って、まったく違う意味で理解し、行っていることが多いのである。それでもなお、言葉自体は変わりなく最初の意味を湛えている。祭りの際の慣習で群衆が叫んだとしても、その言葉自体は真実なのである。そして、群衆の叫ぶ言葉自体が祈りを実現する神の賜物、神の言葉なのである。それゆえに、救いは高きにおいて確立している。言葉そのものにおいて、救いは確立している。

高きにおける救いはすでに確立している。それを担うイエスがエルサレムに入城する。確立している救いをもたらすためにイエスはエルサレムに入城する。この入城は、ロバの子に乗る入城。小さき存在に乗り、柔和なる王として入城するイエス。ロバの選びも、天において確定している。このロバはイエスが神の意志を引き受けたとき、天において定められていたロバである。我々は、行き当たりばったりで物事を選ぶのではない。我々もまた天において確立されていたように選ぶのである。我々が生まれることも、親がこのような子を産もうと思って産むのではない。神が天において、このわたしを産もうと望んでくださったがゆえに、地上に産まれるのである。高きにおける救いもまた、この神の意志であり、神によって地上にもたらされる。イエスのエルサレム入城は、このとき天において確立していた入城なのである。イエスは神の意志に従って、必然的にこのとき入城したのである。叫んだ群衆も必然的に叫んだ。神の真実の救いが天において我らを救い給うているのだと叫んだ。その救いがイエスによって実現するのである。エルサレムに入城するイエスによって、高きにおける救いが地上にもたらされる。

イエスが如何にして、地上に救いをもたらすかということは、群衆には未だ分からない。群衆には十字架は見えていない。イエスだけが見えている。群衆が見えていないとしても、見えているイエスがエルサレムに必然的に入城したのだから、救いは地上にもたらされる。そして、地上において、高きにおける救いを受け取る者が起こされる。これがイエスがエルサレムに入城するということである。我々が理解できなくとも、高きにおける救いは確立し、イエスによって地上にもたらされ、受け取ることが可能となる。この地上へのもたらしが十字架なのである。もちろん、十字架を理解している者など一人もいない。弟子たちさえも理解してない。イエスお一人だけがご自身の担うべき十字架をご存知である。

群衆にとっては、自分たちが叫んだホサンナを十字架がもたらすとは思えないであろう。それは仕方ないことである。群衆は慣習的に叫んだだけなのだから。それでも叫ばれている言葉自体が神からの賜物である。真実に叫ばれていないとしても、言葉自体は神の言葉である。言葉自体は真実である。叫ばれた事柄を実現するのは神の言葉そのものなのである。群衆が真実の心をもって叫んだかどうかが問題なのではない。群衆が慣習的に叫んでもなお、言葉自体が真実なのだからそれで良いのだ。群衆の思い描いたような救いではないであろう。彼らは理解しないままに、叫んでいる。それでも十字架の救いは実現する。彼らが叫んだように実現する。地上的ではない救い、高きにおける救いが実現する。群衆の叫びは、神が叫ばせた叫び。神が与えた言葉。神が実現し給う言葉。このみことばとして、イエスはエルサレムに入城するのである。ゼカリヤ書で預言されていたように、ロバに乗って入城するのである。神の言葉が実現する。これがイエスがもたらす高きにおける救いなのである。

我々が理解していないとしても、イエスは来たり給う。あなたのうちに入城し給う。みことばとして入り来たり給う。あなたの救いが来る。高きにおける救いが来る。あの十字架を通して、実現されるあなたの救い。あなたの未来。あなたの新たな創造。今日から始まる受難週、キリストは十字架を負うために進み給う。あなたの救いは天に確立している。高きにおける救いはすでに天にある。ただ、受け入れるだけ。あなた自身の救い主を迎えよう。ホシャーナーと迎えよう。

祈ります。

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