「イエスのカイロス」

2018年3月28日(聖週水曜日)

マタイによる福音書26章14節~25節

 

「良いカイロスを捜していた」ユダ。「わたしのカイロスが近くにある」と言うイエス。どちらも神の時カイロスである。しかし、神の時は、自分のために良い時ではなく、神にとって良い時である。イエスはわたしが受けるべき神の時が近くにあると言ったのだが、ユダはそのカイロスを捜したのである。捜さなければならないとすれば、それは自分が「良い」と判断する時である。イエスは時を判断していない。判断しているとすれば、カイロスが近くにあると判断しているのである。しかし、神の時カイロスは常に近くにあるのではないのか。そうである。それでも、イエスに迫っているカイロスが近くにあると判断したのである。それは、おそらくユダが自分にとって良いカイロスを捜していることを知っていたからである。そのユダが、イエスの言葉に対して「わたしではないですよね、先生」と言った言葉は、「あなたが言った」とイエスに受け止められた。神の時を引き受けるのではなく、自分にとって良いカイロスを捜すユダが言う。「わたしではないですよね。」と。あなたは自分で時を捜しているではないか。そのあなたが言うのか。いや、あなたが言ったのだ。あなただからこそ言ったのだ、とイエスはユダに答えたのである。それはどういう意味であろうか。

ユダの時カイロスは、ユダが引き渡すことを決めた時である。それはユダが選択したようであって、神が選択させている。ユダは自分の時を生きている。ユダの時の中で、自分にとって良い時を捜しているユダが選択した時は、神の時を選んでいるのである。選ぶ時点で、神の時ではなくなる。選ぶことで、神の時を引き受けることはない。自分が裁かれず、密かにイエスを引き渡すことができる時を選ぼうとするユダ。これは神の時なのだろうか。悪魔の時なのではないのか。いや、すべての時は神の時、カイロスなのである。その神の時を自分のために選択する時、我々は神の時を自分の時にしてしまう。こうして、我々は神のカイロスの中で、自分の時を作り出してしまう。作り出された自分の時は、もはや神の時ではなくなっている。しかし、すべての時が神の時カイロスであるならば、神の時でなくなったカイロスも未だ神の時である。ユダの時となったカイロスも神の時である。こうして、ユダは自分の時を捜すことで、神の時としてしまっている。ユダの罪のゆえにユダの時は神の時、神の裁きの時、ユダの罪の時として働くようになってしまっているのである。

一方、イエスのカイロスは、イエスがカイロスを神の時として引き受けるがゆえに、純粋に神の時として働く。イエスが「わたしのカイロスが近くにある」と言ったのは、すべての神のカイロスの中で、わたしに割り当てられた、わたしが引き受けるべきカイロスが近くにあるということである。その神の時をイエスは選択しない。神から与えられるままに引き受ける。ここにおいて、イエスのカイロスは神の時として働くのである。選択しないことにおいて、イエスは神の時を生きるのである、わたしのカイロスとして。ユダは自分のカイロスを捜し、罪の時としてしまうが、イエスは自分のカイロスを引き受け、神の時として生きる。この両者が、イエスのカイロスである。ユダの捜したカイロスもイエスのカイロスの中に含まれているからである。

イエスのカイロスは、我々人間の罪におけるカイロスを含むがゆえに、すべての人間のためのカイロスとして働くのである。なぜなら、イエスのカイロスがユダの罪のカイロスを含むのだから、すべての人間が罪人であり、自分のカイロスを捜しているならば、イエスが引き受けるカイロスに含まれていることになるからである。そのような意味において、ユダのカイロスは神のカイロスである。しかし、ユダにとっては「もし彼が生まれなかったならば、彼にとってそれは良かった」カイロス。イエスがこのように言うのは、ユダを非難しているのではない。むしろ、ユダを憐れみ、ユダにとって生まれなかったならば良かったと言われるイエスの愛なのである。ユダが自らの罪で、神のカイロスを自分の罪のために働くカイロス、裁かれるカイロスとしてしまうことを、悲しんでおられるイエスの心なのである。

ユダは自分の欲のためか、イエスへの苛立ちのためか、良くは分からないが、イエスを引き渡すことを決心したのである。この決心がユダの欲であろうと苛立ちであろうと、ユダの罪がそれを行わせたと言えるであろう。イエスがメシアとしての姿を明らかにしないことに苛立ち、危機に陥ったならば、イエスがメシアとしての力を発揮するかもしれないとユダが考えたとしても、ユダ自身の考えに従って実行されたことである。つまり、ユダは神の時を待つことができなかった。神の時を自分で来たらせようとした。そこに罪がつけ込んだと言えるであろう。

ユダは、罪につけ込まれて、罪に流されて、自分にとって良いカイロスを捜したのである。そのユダが「わたしではないですよね」と言ったのは「あなたが言った」ことであって、そう言わざるを得ないあなたが言ったことであるという意味であろう。あなたは自分の時を隠すために、そう言ったのだという意味であろう。他の弟子たちは、神が定めたわたしの時なのだろうかというイエスへの問いだったであろう。しかし、ユダの場合は、自分の捜している時を自分のものとするために語った言葉であった。それゆえに、「あなたが言った」とイエスは答えたのである。カイロスを捜す人間とカイロスを受け入れるイエス。この両者がイエスに引き受けられ、十字架に現れているのである。

我々が自分に都合の良い時を捜すとき、我々はユダと同じ次元で生きている。我々が神の時としてすべての時を受け入れるとき、我々はイエスのように生きるであろう。しかし、我々罪人はユダと同じ次元で生きている。生きざるを得ない。我々はユダと同じ罪人なのである。ユダを批判することはできない。ユダが愚かなのであって、わたしは大丈夫だと思うならば、ユダと同じなのである。ユダもそう思っていたであろう。他の弟子たちは何も分かっていないと。イエスがメシアとしての姿を現すためには、危機が必要なのだと考えたとしても、イエスをただ売ろうとしただけだとしても、ユダは他の弟子たちを蔑んでいたのである。自分だけが良いカイロスを見つけることができると考えたのである。ユダは、このように罪に陥った。だとすれば、我々もまたユダと同じである。他の弟子たちも同じであろう。彼らはユダほど考えることがなかっただけであって、自分のためにイエスを置いて逃げるのだから。それでもなお、イエスのカイロスを実現してしまうユダは可哀想である。イエスが「生まれなかったならば彼にとって良かった」と言うとおり、ユダは悲しい存在である。イエスの憐れみの嘆きは、ユダの悲しみを受け取る嘆きなのである。後のユダの嘆きを先取りした嘆きだとも言える。イエスはユダを愛し、ユダを憐れみ、ユダの来たらせたと思ったカイロスを引き受けた。ユダが実行したことが神のカイロスとして働くことになったのは、イエスが神のカイロスとして、ユダの行為の結果を引き受けたからである。こうして、我々の罪のカイロスは、イエスの十字架にすべて引き受けられている。我々が罪深いことは変わらない。それでもなお、イエスがわたしの罪深い選択を引き受けてくださったと信じる者は、イエスに引き受けていただいた感謝を生きるであろう。そのとき、あなたはイエスの十字架によって罪赦されている。贖われ、救われている。

イエスの十字架は、イエスが引き受けたイエスのカイロス、神の時の中で我々の救いとなっているのである。我々の罪を包み込むイエスの十字架のときが近づいている。聖なる週の一日一日を自らの罪を思い起こしながら、歩んで行こう。ユダの罪は、わたしの罪であることを思い起こしながら、歩んで行こう。ユダが神のカイロスにおいて実行したことが、救われ難いわたしの救いとなっているのである。ユダを憐れむイエスの憐れみが、このわたしの上にも注がれていることを思いつつ、悔い改めて生きて行こう。

祈ります。

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