「祝福された者たち」

2018年3月29日(聖週木曜日)

ヨハネによる福音書13章1節~17節

 

「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。奴隷は彼の主より大きくはない。遣わされた者は彼を遣わした者より大きくはない。もし、あなたがたがこれらのことを知ってしまっているならば、あなたがたは祝福された者たちである。もし、それらをあなたがたが行うならば」とイエスは言う。最後に「もし、それらをあなたがたが行うならば」とイエスは付け加えている。これによって、知ってしまっているだけではダメなのだと思ってしまうであろう。行わないならばダメなのだと。そうではない。知ってしまっているならば必然的に行うのだということである。そうでなければ知ってしまっているとは言えないのである。しかし、これを人間の行為としてはならないのは確かである。なぜなら、「あなたがたは祝福された者たちである」とイエスはおっしゃっているからである。

祝福された者とは、神によって祝福を受けている者である。祝福を受け取っている者が祝福された者である。受け取る者は受け取ったように生きる。祝福された者は祝福された者として生きる。それゆえに、祝福した神がその人の主体である。それがイエスが「これらのことをあなたがたが知ってしまっているならば」と言う事柄、奴隷と主、派遣者と被派遣者の関係なのである。奴隷は彼の主より大きくはないということは、奴隷の主が奴隷を包んでいるということである。派遣者が被派遣者を包んでいるということである。それゆえに、奴隷の行為は主に包まれている中で行われる。被派遣者の行為も派遣者に包まれた中で行われる。派遣者がいなければ、被派遣者はいない。主がいなければ奴隷はいない。奴隷の行為は奴隷の意志ではない。主の意志である。被派遣者の行為は被派遣者の意志ではない。派遣者の意志である。奴隷も被派遣者も主と派遣者の意志を行うのは当然である。如何なることであろうとも従うのである。そのことを知ってしまっているならば、祝福された者たちであるとイエスは言うのである。それは主の祝福、派遣者の祝福を受け取るだけの存在だということである。

受け取るだけの存在とは言え、受け取ったならば受け取ったように生きる。それゆえに、主の祝福が奴隷を生かす。派遣者の祝福が被派遣者を生かす。奴隷は行為を自慢できない。被派遣者も行為を自慢できない。ただ主の命令に従ったまでですと答える。派遣者が命令したままに従いましたと答える。さまざまな言い訳をして、行わない者は祝福された者ではない。自分が自分の行為を決定しようとするからである。自分ができるかできないかを決めようとするからである。できそうにないと自分の力だけを見るからである。あなたができるかできないかを主は問うてはいない。行いなさいとおっしゃるだけである。あなたができないと自分を限定することは、主が命じ、派遣したことに反対することである。主の命令はあなたができるか否かを問うてはいない。ただ行いなさいと命令する。こうして欲しいのだと命令する。それに従うのが奴隷であり、被派遣者である。

奴隷も被派遣者も主の命令や派遣者の権威を付与されている。彼らが行うとすれば、それは主の命令と派遣者の権威によって行うのである。行ったことによって誉められるわけではない。自分を誇る奴隷はいない。自分を誇る被派遣者はいない。命じられたことを果たしましたと報告するだけである。彼らは主や派遣者の手足となって生きる。それだけである。そのとき、彼らは主や派遣者に祝福された者である。彼らが行うことは、謙虚に主に従い、派遣者に従うがゆえに必然的に行うことなのである。従って、これらのことを知ってしまっているならば、行うであろうし、祝福された者だから行うことができるのである、主と派遣者の力によって。彼らの命令は行わせる力なのである。

イエスがこうおっしゃったのは、弟子たちの足を洗ってしまった後であった。弟子たちが互いに足を洗い合うことを命じた主。彼らが祝福された者であるのは、イエスが足を洗ってくださったからである。足を洗うことは、日々の罪を赦し合うことである。足が汚れるのは、日々外を歩いているからである。生活しているからである。生活の中で汚れる足を互いに洗い合うということは、日々の罪を赦し合うことである。さらに、日々犯す罪を浄め合うことである。足を見せることは罪を告白することである。自分を誇らず、良い人間だと見せることなく、謙虚に罪を認めることである。それが祝福された者、足を洗われた者、罪赦された者である。祝福された者は必ずそのように生きる。足を洗われた者は必ずそのように生きる。罪赦された者は罪赦された者として生きる。それだけなのである。

我々が意気込むがゆえに、自分の力を計る。そして、自分には力がないと自分を限定する。主がそのあなたの足を洗い、罪を赦し、祝福してくださったのだ。あなたの力を求めてはない。主の力、主の祝福があなたに行わせる。あなたは自分の力を見てはならない。主の愛を見なければならない。主が、あなたを愛し、あなたのためにご自身を献げてくださったのだ。その愛が、あなたを生かしている。あなたを祝福している。それこそがあなたの力。主こそあなたの力なのだ。

イエスは「世にある御自分の者たちを愛し、終わりまで愛した」と記されている。彼らは主に愛された者。主の愛を一身に受けた者。主の愛が彼らを包んでいる。主の愛こそが彼らの原動力。愛された者が愛する者となる。愛された者が主の愛を伝える者となる。主の愛によって派遣される。主の奴隷として生きる。それが十字架の主の最後の意志なのである。この意志を受け取っている者は主の意志に従う。主の愛によって生きる。主の赦しのうちに力を受ける。あなたが見詰めるべきは、自分の力ではない。主の愛と赦しの御業、主の十字架である。

あの十字架から来たる力。主の愛の力。十字架の言葉。それがあなたの宝であり、あなたのいのちである。誰も獲得することのできないものをあなたは働きもなしに持っている。誰も買うことのできないものをあなたは無償で与えられている。ただ主の愛によって、与えられ、持っている。あなたが愛する者であるようにと主は十字架を負ってくださった。あなたが罪赦されて生きるようにと十字架を引き受けてくださった。あなたは罪赦された者。あなたは愛された者。祝福された者。誰もあなたの力を見ない。あなたを愛したお方を見る。あなたのような者の罪を赦し、愛し、祝福するとは、どのようなお方なのかと見る。十字架の主を見せるのは、あなたの罪深さ、あなたの無力さ、あなたの弱さ。彼らは、主の御力があなたを生かしていることに驚くであろう。行いもなく、無力で、弱いあなたを愛するとは、主はどれほど愚かな者であろうかと見るであろう。しかし、真実に自らを知る者は、どれほど豊かな知恵に満ちたお方だろうかと見る。あなたを通して、主を見る。あなたを通して、十字架を仰ぐ。それがあなたに委ねられている主の意志、主の言葉である。こうして、あなたは主の奴隷として派遣された者となる。他者があなたを通して、主を仰ぐ者として派遣された者となる。

主はそのために、ご自身をあなたに与えてくださる。主の体と血があなたを主と同じ姿に変えてくださる。あなたのうちにわたしキリストが形作られるようにと、ご自身を与えてくださる。このお方の体と血に与るのは、罪を告白する者。罪を認めた者。罪深き者を愛してくださる主を知る者。あなたを愛する者として造り給う主の愛の賜物、聖餐をいただき、主のように、神に従う者へと変えられていく。あなたは祝福された者。あなたは愛された者。あなたは善き力に満たされている者。

「力を捨てよ。知れ、わたしは神」とおっしゃるお方が、キリストを派遣し、あなたの救いを実現してくださったのだ。力を捨て、神の力によって生きて行こう。あなたの罪深さも弱さも主のうちにあって変えられていく。主と同じ姿に変えられていく。感謝していただこう、主の御力を、主の体と血を。あなたを愛する者として造り給う主の愛を。あなたは主の十字架によって祝福されている。

祈ります。

Comments are closed.