「霊の引き渡し」

2018年3月29日(聖週金曜日)

ヨハネによる福音書19章17節~30節

 

「それで、酸いぶどう酒を受け取ったとき、イエスは言った。完了された。そして、頭を垂れ、彼は霊を引き渡した」と記されている。イエスの十字架の死の最後の有様をヨハネはこのように記録している。イエスは「完了された」あるいは「完成された」、「終極に達せられた」とおっしゃった。そして、ご自身の霊を「引き渡した」のだとヨハネは記している。「完了された」という受動態の主体は神であり、イエスが霊を「引き渡した」相手は神である。神が主体として働いておられるのがイエスの十字架であり、イエスの生涯である。

「引き渡す」という事柄は、何も手を付けずにそのままに「引き渡す」ということである。イエスはご自身の霊をご自身のものとすることなく、そのまま神に返したということであろう。聖書のギリシア語では「息を引き取る」ことをこのように表現した。造り主である神が霊を吹き込んだ人間が息を引き取るということは、霊を神に引き渡すことである。イエスが引き渡した霊は神の霊なのである。神のものなのである。イエスは、その生涯が神のものとして「完了された」と言ったのだ、十字架の上で。

神のものとして生きたイエスが、神のものとして死ぬ。神からいただいた霊を神に引き渡して死ぬ。これがイエスの生涯であり、イエスの生と死である。死の時にも、イエスは神のものであり続けた。神によって完了された生涯を生きたということである。もちろん、ご自身の使命が完了された、神によってという意味でもあろう。イエスの生涯は神の意志に従って完了された生涯なのである。

しかし、十字架の上で、母マリアとイエスの弟子とを結び付けるイエスは、神のように語っている。イエスは十字架の上で、人間と人間を結び付ける神のように振る舞っている。十字架が人間と人間を新しい関係に入れることを示唆しているようである。自然的生においては家族ではない者同士が、イエスの十字架の下で家族とされる。これも十字架の働きである。ここから教会が生まれた。我々が自らの罪を認めるとき、イエスは十字架の上から我々人間同士を結び付け、家族としてくださるのだ。同じ罪人である家族。イエスの十字架の下に集められる家族。イエスが結び付ける家族。これが教会である。十字架の下から、教会が始まった。イエスの十字架が我々を結び付けるのである、神の家族として。

ご自身の霊を引き渡したイエスが、神の許にご自身を引き渡した。その結果、我々はイエスの家族として生きる道を開かれた。イエスが人間の罪を一身に背負い、死んで復活させられたからである。このイエスが「完了された」と言うご自身の生涯は、我々人間を一つにするために献げられ、完了された生涯である。我々は罪深き人間であるが、自らの罪を認めた存在が、十字架によって一つとされる。このために、イエスは十字架を負われた。人間によって、十字架に引き渡されたイエスが、ご自身の霊を神に引き渡すことで、すべてが完了する。この完了されたイエスの生は、「引き渡す」という言葉で締めくくられている。「霊を引き渡した」イエスが、ご自身の霊だけではなく、ご自身が引き受けた人間の罪も神に引き渡した。ありのままに引き渡した。それは、我々の罪が無くなることではなく、あるがままの罪が神に引き渡されることである。

あるがままの罪が引き渡されるということは、罪を認める者にしか可能ではない。イエスの死を招いた我々人間の罪が、イエスの霊と共に神に引き渡された。それゆえに、我々が自らの罪を認めるとき、罪深きままに神のものとして生きる道が開かれる。善い人間にはなり得ない我々が、神のものとして生きるようにされる。神は、我々の罪深さを憐れみ、キリストの十字架において、すべてを受け入れ給うた。罪深き者が神の義に包まれ、造り替えられるようにと神はキリストを十字架に引き渡した。人間が犯した罪をキリストはすべて引き受けて、ご自身の生涯を十字架の上に完了された。神が完了し給うたイエスの生涯と十字架が、我々人間の救いとなるのはこのゆえである。

イエスは、十字架の上からすべてを見ておられる。すべてが見える十字架の上から、イエスは人間同士を結び付け給う。すべてが完了された十字架の上で、イエスはすべてを神に引き渡し給うた。このイエスの完了がイエスの終わりであり、完成であり、終極である。しかし、すべての始まり、再創造の始まりである。それは神の言葉である聖書に書かれているとおりに完了し、開始された。聖書に書かれているとおりのことがイエスの十字架の下で起こっている。聖書が完了したのでもある。これ以降、聖書は付け加えられることはない。完了されているからである。

完了された聖書、完了された神の言葉、完了されたイエスの生涯。そして、完了された人間の罪からの解放。イエスがご自身の霊を神に引き渡すことにおいて、我々も世界も完了された神の世界の中に置かれた。我々も世界も完了された神の世界に生きることになった。この世界は、我々人間のものではない。神のものであることをイエスの霊の引き渡しは語っている。神のものである世界へと解放された我々は、完了された世界に生きている。しかし、我々自身は未だ完了された生を生きてはいない。完全に神のものとして生きてはいない。イエスは神に引き渡した霊を持って、我々を導き給う。聖霊の働きにおいて我々を導き給う。完了された世界を生きるようにと導き給う。罪赦された者が、罪赦された者として生きるために、イエスは導き給う。聖霊は働き給う。その始まりがイエスの十字架の死である。

イエスが完了されたと言う十字架の死における完了は、神によって完了された出来事。人間が何ら介入することなく、神ご自身が完了された出来事。この出来事がすべての人間のために完了された。すべての人間が完了された出来事を受け取るために、まず完了された。イエスが生涯をかけて、完了された出来事が我々すべてのものの前にある。受け取るようにと完了され、啓示されている。我々は、ただ神の御業の中に入るだけで良いのだ。いや、自分の業を捨てて、神の業の中に入らなければ完了された出来事を受け取ることはできない。啓示された出来事を受け取ることはできない。何もかも捨てて、従うしかない。これがイエスが完了されたと述べたイエスの十字架なのである。

罪深き人間の業を預言する聖書は、罪深き人間を包んで、完了へと導く神を語っている。人間の罪にも関わらず、神の完了は成し遂げられている。人間の罪にも関わらず、神はご自身の御業を完了されている。イエスの十字架において完了されている。成し遂げられた救いはすでに十字架の上にあるのだ。我々が働かなくともあるのだ。我々が認めなくともあるのだ。我々が信じなくともあるのだ。信仰は、あるものをあると認めることである。神の出来事を認めることが信仰なのである。愚かな人間の背きにも関わらず、神が完了し給うた出来事は厳然と我々の前にある。この事実に目覚めることが信仰であり、目覚めさせてくださるのは神である。

目覚めは神から来たる。信仰は神から来たる。完了は神のものである。我々がイエスの十字架を見上げるならば、十字架は我々を迎えてくださる。罪深きままに迎えてくださる。義人となり得なくとも迎えてくださる。罪深きわたしを迎えてくださる。イエスはそのために死んでくださったのだから。引き渡されたイエスの霊が、我々の罪を引き渡し、我々の生涯を神に委ね給うた。それゆえに、我々もまた我々の霊を神に引き渡そう。ありのままの罪深きわたしを神の前に差し出そう。神は、イエスの十字架において、我々の罪を引き受けてくださったのだから。わたしのすべてを受け入れてくださる。あなたの罪を赦すとおっしゃってくださる。

イエスの完了された生涯が、わたしの生涯を完了へと導き給うことを信じて、神にすべてを引き渡そう。あなたは神のもの。神の愛する人間。罪深く愚かなあなたを神は愛し、イエスの十字架において受け入れてくださる。イエスと共に、復活の喜びに満たしてくださる。あなたはイエスによって神に引き渡された者として生きるのだ。

祈ります。

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