「忘我の朝」

2018年4月1日(復活祭)

マルコによる福音書16章1節~8節

 

「彼女たちは出て行って、逃げた、墓から。なぜなら、おののきと忘我が彼女たちを持ち続けていたからである。そして、誰にも何も彼女たちは言わなかった。なぜなら、恐れ続けていたからである。」とマルコは報告している。墓に座っている若者が告げたことを誰にも言わなかった、何も言わなかった女たち。ここで終わってしまっては、イエスの復活は伝えられない。確かに、自分が確認していないことは誰にも伝えられないであろう。女たちはおののいて、我を忘れていた。忘我である。忘我は、神の霊に支配されるときにも起こるが、ここでは自分が何を見て、何を聞いたのかも分からないほどに、我を忘れていたということである。それほどに、彼女たちは恐れに捉えられていた。おそらく、若者の語った言葉も耳に入ってはいなかったであろう。

恐れているときには、我々は萎縮して、何もできなくなる。何を聞いたのかも、誰なのかも分からないようになる。女だからというだけではない。男であろうとも恐れているときには萎縮するものである。まして、女性であるがゆえに、男性の若者の有様と言葉をありのままに受け取ることができず、ただ恐れて、何もできない状態に置かれたのである。いったい何が起こっているのかも分からないままに、逃げたのである。それが忘我である。

若者が天使であるならば、そのような反応を示すであろうことが分からなかったのであろうか。もちろん、神は人間がどう受け取ろうとも、ご自身の意志はまっすぐに語り給う。受け取ることができなくとも語り給う。神の御使いであろうとも同じである。若者が天使であったとしても、マリアたちのおののきと忘我を配慮して語るということはあり得ないのだ。むしろ、配慮せずに語るがゆえに、真実の語り、ありのままの言葉になるのである。

真実は突然やって来る。いや、真実がベールを取り除かれるとき、突然やって来たとしか我々人間には認められないのである。女たちにとっても、予想を覆されたのは突然である。墓にあると思っていたイエスの亡骸はなく、若者が座っている。思い描いたこととは違うことが起こっていた。それを見た女たちが我を忘れ、何を聞いたかも忘れ、ただ恐れに取り憑かれていたのは当然である。しかし、神の真実は真実である。イエスが復活させられたことは真実である。その知らせが突然やって来た女たちは受け止めることができずに、我を忘れた。神は真実を語り給う。受け取るべき人間が受け取ることができず、聞くべき人間が聞くことができないだけである。それを神の配慮の無さと非難することはできない。人間の罪ゆえに、受け取ることも聞くこともできないというだけなのだ。

マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、我を忘れて、ただ逃げた。彼女たちが誰にも何も言わなかったということは、彼女たちも信じることができなかったということである。忘我であることは、信じる心など起こされていないということである。忘我に陥っているならば、神の働きにすべて委ねているという場合もある。しかし、この場合は違った。ここで使われているエクスタシスとは我を忘れること、自分の外に立つこと。忘我であることが神の働きを受けることもある。しかし、神の働きを伝えるという使命は忘我ではできないのだ。使命は意識を持っていなければできないからである。もちろん、自分が伝えようという意識を持つのではなく、伝えなければならない切迫があって、伝えるのである。この切迫は神の切迫である。人間の使命感が伝えるのではない。神の切迫が伝えさせるのである。しかし、女たちは切迫ではなく、おののきゆえに忘我に支配されていた。だからこそ、彼女たちは何も伝えることなく、誰にも何も言わなかったのである。

復活の朝、誰にも何も言わない忘我が支配していた。これでは、イエスの復活は伝えられない。イエスが復活させられたのに、誰にも復活の喜びは伝わらない。それで良いのかと思ってしまう。しかし、それが、神が女たちに伝えるようにと語った結果なのである。女たちは伝えることができなかった。喜びもなく、我を忘れて逃げた。それは人間として当たり前のことである。それが悪いのではなく、ただ神の意志が語られることが重要なことなのである。なぜなら、女たちが聞いたとおりに行動していたならば、女たちの素晴らしさが強調されたであろうから。しかし、女たちの忘我が強調されている。それで良いのだ。誰も自分から使命に従うことはできないのだ。神が語られたとおりに行うことなど人間にはできないのだ。我々が真実に行うとすれば、我々の魂を揺り動かして迫る神の意志を受け取ったときである。そのときは、未だ来ていない。女たちにも来ていない。イエスが現れなければ、誰も伝えることができないということである。これが忘我である朝が意味することである。

忘我の朝、女たちは恐れている。おののいている。我を忘れて、何をしているのか分からないままに、逃げた。それだけが真実である。神の真実に出会った人間は我を忘れるほど驚き、恐れるのである。神の出来事、神の真実は人間にとって恐れを生じさせる。人間が神の真実に出会って、簡単に喜ぶはずはない。簡単に、了解するはずはない。自分の予想と違うことは、誰でも簡単には受け入れられないのだから。まして、神の出来事を簡単に受け入れることなどできようはずはない。

我々は、女たちの行動を訝しく思うかも知れない。しかし、自分自身がこの立場であれば、同じことをしていたであろう。忘我に支配されていたであろう。イエスの復活はそれほどに驚くべき恐ろしい出来事だったのだ。現在の我々が復活の朝の喜びを経験したいと思うとしても、女たちと同じように振る舞うであろう。我々も女たちも皆罪人なのだから。彼女たちの逃走、彼女たちの恐れ、彼女たちの判断不能。これが復活への最初の反応なのである。ここには喜びはない。恐れと忘我があるだけ。これが復活なのである。マルコは、恐ろしい出来事として復活を語っているのである。忘我に陥るほどに恐ろしい出来事だと語っているのである。この恐ろしい出来事が、喜びであると受け取るのは、受け取る信仰を与えられた者のみ。その人は、まずおののくのでなければ受け取ることはできない。恐ろしい出来事が起こったのだと受け取ることは、女たちの反応だったが、他の男たちや祭司長、律法学者たちには恐ろしさではなく、馬鹿げたこととしか思われなかったであろう。おののき、我を忘れ、恐ろしいと感じる者だけが正しく受け取る。

この恐れと忘我は、神の顕現に出会った者の反応。あのペトロが山上の変容に接して感じた恐れと混乱を思い起こせば良い。女たちが捕らわれた恐れおののきと忘我は、女たちが神の出来事を理解できないことを語ると同時に、イエスの亡骸が失われていることが神の出来事であると語っているのである。

復活はまず真実に女たちに伝わった。恐れと忘我として伝わった。誰にも何も言わないようにされた女たちは、まさに神の出来事を語っている。誰にも何も言わないのだが語っている。若者が伝えるようにと命じたとおりに、女たちは自分たちの言葉では伝えなかったが、自分たちの恐れと忘我によって伝えているのである。神の出来事は女たちの恐れと忘我という罪人の反応にも関わらず伝えられている。彼女たちの恐れと忘我が神の出来事を伝えている。神が恐れさせ、神が忘れさせ、神が伝えている。

神は、我々人間の罪と背きにも関わらず、ご自身の意志を伝え給う。人間の罪深き反応を通しても伝え給う。伝わるべきことは伝わる。主のご復活は神の意志が成し遂げた神の出来事なのだから。女たちの恐れと忘我を通して我々は知る、イエスは確かに復活させられたのだと。復活は神の出来事、神の真実である。この真実をまっすぐに見て、受け取る信仰を起こすために、イエスはご自身の体と血を我々に与えてくださる。復活の朝の忘我の女たちのように、我々は神の出来事を伝える。神を畏れることを通して、主のご復活を証しするのだ。主を畏れる者に幸いあれ。神の恐れと忘我があなたを主の復活の証人とする、神の意志に従って、女たちのように。

主のご復活おめでとうございます。

祈ります。

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