「不信仰者の派遣」

2018年4月8日(復活後第1主日)

マルコによる福音書16章9節~18節

 

「週の第一日の朝早く復活して、彼はまずマグダラのマリアに現れた」と記されている。忘我のうちに逃げた三人の女のうちの一人、マグダラのマリアにイエスは現れた。「現れる」と訳される言葉は、ファイノーというギリシア語で、能動態では「輝く」、「光を与える」という意味であるが、受動態では「現れる」、「見えるようになる」という意味である。マグダラのマリアは、イエスから光を与えられ、見えるようになったということである。「見る」という行為を、我々は自分が見ると思ってしまうが、実は相手から光を与えられて、見えるようになった相手を「見る」のである。つまり、マグダラのマリアはイエスから光を与えられて、イエスを見せられたということである。そして、ようやくイエスの復活、生きておられることを信じた。

しかし、彼女が弟子たちのところに行って、自分が見せられた事実を報告しても、弟子たちは「信じなかった」と記されている。やはり、イエスに見せられなければ信じないのだ。マグダラのマリアにしても、見せられてようやく信じたのだから。同じように、信じることができない弟子たちは、彼女の言うことを信じなかった。また、二人の弟子たちが田舎へ向かっているとき、異なる姿でイエスは彼らに現れた。その弟子たちの言うことも他の弟子たちは信じなかった。そうして、11人の弟子たちが食事しているときに、三度目にイエスは現れる。結局、誰もが人間の言葉では信じないがゆえに、イエスがご自身を見せている。復活信仰は、「見る」という行為のように、イエスから来たるということである。

もちろん、イエスは弟子たちが信じる者になって欲しいがゆえに、現れておられる。それは、彼らを派遣するためであった。イエスは、弟子たちの不信仰と頑なな心を責めたが、彼らを派遣するのである。不信仰者を派遣するイエス。彼らが信じたから派遣するのではない。彼らを派遣するために現れたイエスは、不信仰者を派遣するために現れたのである。彼らにご自身が見えるようにして派遣したイエスは、不信仰な弟子たちに信仰を与えたということである。復活者を見ることは、信仰を与えられて見るということである。見えるようにされた者が派遣される。マグダラのマリアも二人の弟子たちも同じ。見えるようにされて、報告したのだから、彼らが自分でイエスを探し出して、確認して、報告したのではないのだ。イエスが彼らにご自身を見せて、信仰を与え、報告させたのである。不信仰者に信仰を与えること自体が、派遣なのである。なぜなら、見せられた者は報告せざるを得なくなるからである。復活信仰は、あくまで神が見せ、信仰を与え、宣べ伝えるようにする信仰なのである。

では、宣べ伝える必要はないではないかと思える。神が信じさせるのだから、人間が宣べ伝えたからと言って、誰も信じるわけではない。神の力が必要なのである。三人の女たちが心配していた大きな石を転がすことも、墓に行ってみると転がしてあった。女たちが忘我に陥って、宣べ伝えなかったのに、マグダラのマリアは宣べ伝えざるを得なかった。二人の弟子たちも宣べ伝えることになった。これらは、神の力が働いて、彼らに必要なことをさせたことである。宣べ伝えなければならないのではなく、宣べ伝えるようにさせるのは神なのである。若者の言葉だけでは宣べ伝えさせることはできなかった。マリアと二人の弟子たちの言葉だけでは、弟子たちを信じさせることもできなかった。これが現実である。神の力がなければ、誰も信じる者にはされないのである。

では、言葉で伝えること、宣教することは無駄なのであろうか。いや、人間の言葉で宣教することは必要なのである。それを誰も信じないということが必要なのである。そうして後、信仰は神から来たるのである。なぜなら、我々人間が言葉だけで誰かを信じさせることができるならば、我々は自分の言葉の力を誇るであろうから。我々が伝える言葉が神の言として聞かれるように、耳を開かれなければ誰も信じる者にはならないのである。我々もまた不信仰者であった。その我々を信じる者にしたのは、人の言葉ではなかった。人の言葉で書かれた聖書が、神の言として、聞こえてきたからである。不信仰者は派遣されるとき、信仰者とされている。不信仰者は信じる者にされたとき派遣されている。誰でも不信仰者である。誰でも信じる者にされる。誰でも派遣される。これが今日の聖書が語っていることである。

不信仰であることはイエスに責められることではある。悪いというよりも、頑なな心を責められる。それは、イエスの嘆きなのである。責められることがなければ、信仰を起こされることはない。マリアも二人の弟子たちも責められたとは記されていない。しかし、彼らもイエスがわざわざ現れてくださったがゆえに、自分の不信仰を責めたであろう。なんと頑なな心であったことかと。そうして、彼らは信仰を起こされたのである。不信仰であることを知ることこそが、実は信仰を起こされていることなのである。なぜなら、自分が不信仰であると認識するのは、信仰があってこその認識だからである。日本語で「信仰」に「不」がついて不信仰となるように、ギリシア語でもピスティスにアがついてアピスティス不信仰になる。信仰がなければ「不」は付かない。不信仰の認識は信仰における認識なのである。それゆえに、イエスが弟子たちの不信仰と頑なな心を責めたのは、イエスの愛であり、信仰を与える言葉なのである。

イエスの十字架を見上げ、自分の不信仰を責めるとき、我々は信仰を起こされている。十字架は我々の不信仰を弾劾している。我々の不信仰ゆえに、イエスは十字架に架けられた。我々の不信仰をすべて引き受けて十字架を耐え忍ばれた。我々の罪は不信仰なのである。しかし、十字架の前で、自らの不信仰を認識する者は、信仰を起こされている。不信仰の認識がない者は信仰のうちにはいないのである。弟子たちが不信仰であるとイエスに責められて、自らの不信仰を認識したとき、彼らは信仰のうちに入れられ、派遣された。そのときには、神の力のうちに生きることが可能なのである。では、不信仰の認識は我々の宣べ伝える言葉によって起こるのであろうか。

我々が宣べ伝える神の言葉は、我々の言葉として聞かれるときには、不信仰の認識を起こさない。神の言として聞かれるとき、不信仰の認識を起こす。そうであれば、我々は宣べ伝えても、信仰を起こすことはできないことになる。そうである。では我々は何故に宣教するのであろうか。我々が宣べ伝えた言葉が聞かれていることが重要だからである。

イエスが弟子たちの不信仰を責めたのは、彼らがマリアや二人の弟子たちの言葉を聞いていたからである。それゆえに、イエスが責める不信仰を事実として認識することができたのである。我々が宣教するのは、聞いた人が不信仰を自覚するためのほんのわずかな要素である。それでも、宣べ伝える者がいなければ、不信仰の自覚は生じない。使徒パウロがローマの信徒への手紙10章14節で言う通りに、「聞かなかった方を、どうして信じるだろうか。宣教する者がいなければ、どうして聞くだろうか」ということである。それゆえに、宣教は信じることに至るために、必要な要素である。しかし、宣教はあくまで一部であって、全体ではない。信仰は、神が耳を開き、聞かせ、受け入れさせ、不信仰を自覚させるときに、起こされるからである。

それでもなお、宣教がなければ不信仰の自覚に至ることがない。宣べ伝える者がいてこそ、不信仰を自覚することに至るのである。弟子たちの不信仰の自覚は、マリアと二人の弟子たちの報告ゆえに、生じたのである。マリアと二人の弟子たちも、若者の言葉ゆえに、不信仰を自覚させられたのである。こうして、不信仰者は派遣され、宣教はつながって行く。我々には信じさせる力はない。ただ、神のみが、一人ひとりの罪を自覚させる力を持っておられる。そのために、我々は宣教し続ける。神が相応しいときに一人ひとりに働き給うようにと祈りながら。あなたの不信仰が信仰への入口。あなたが不信仰を自覚するとき、復活のイエスに出会っているであろう。

祈ります。

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