「日常の復活」

2018年4月15日(復活後第2主日)

ヨハネによる福音書21章1節~14節

 

「何か付け合わせの小魚を、あなたがたは持っていないのか。」と岸にたっているイエスは舟の上の弟子たちに聞く。彼らは「ありません」と答える。夜通し漁をしたが、何も獲れなかったからである。イエスは、「付け合わせの小魚」と言っている。「何か食べるもの」と訳されているが、この言葉は「付け合わせの食べ物」を意味し、当時の食事の慣習ではパンと付け合わせの小魚を一緒に食べることが一般的であった。それで、イエスは「付け合わせの小魚」と言ったのである。パンはあったからである。

「ありません」と答えた弟子たちが、イエスの指示に従って、舟の右側に網を打ってみると、大量の魚が獲れた。それを岸に引き上げると、イエスのそばには炭火がおこしてあって、小魚とパンが置いてあった。イエスは、大量の魚の中から「小魚を持ってきなさい」と言って、弟子たちにパンを与え、小魚も与えたと記されている。イエスが炭火の上に置いていた小魚はどこから来たのだろうか。イエスは弟子たちに「付け合わせの小魚をあなたがたは持っていないのか」と聞いたのに、イエスは持っていたのだ。イエスは、予め準備していた小魚に加えて、弟子たちが獲った小魚を持ってくるように指示している。これは何を意味しているのであろうか。

イエスは、弟子たちの小魚をご自身の小魚に加えて、弟子たちに与えているのである。イエスご自身には何も欠けることがないということであり、それをすべて弟子たちに与えるのではなく、弟子たちがイエスの指示に従って得たものを加えて与えておられるのである。つまり、イエスは弟子たちの働きを受け入れて、ご自身の働きとしてくださるということである。ご自身では何も欠けることがないイエスが、弟子たちに働きを与え、働きの実りを受け入れ、弟子たちに与える。これは宣教を意味しているのであろう。宣教とは、イエスご自身に何も欠けるところがないにも関わらず、我々人間がイエスの宣教に協力するのであるが、我々が行うことは小魚の獲得程度なのである。イエスご自身の宣教はすべて満たされているものをイエスご自身が与えることである。しかし、我々に働きを与え、働きの実りを加えて、ご自身のわざとしてくださるということである。これはマルティン・ルターが「小教理問答書」の主の祈りの解説で語っていることである。「神の国は私たちの祈りがなくともそれ自体で確かに来る。しかし私たちはこの祈りにおいて、み国が私たちのところにも来るようにと願うのだよ。」と。神の働きは完全であって、我々人間の協力など一切必要ない。にも関わらず、神の国がこのわたしのところにも来るようにと願うために祈るように、我々も神の働きの中にいられるために、神の働きに仕えることと同じである。

宣教という事柄は、神ご自身の業である。イエスご自身が宣教なさる。にも関わらず、イエスは弟子たちを宣教に派遣する。それは、弟子たちに働きを与え、ご自身の働きの中に入れることなのである。しかも、今日の箇所では、弟子たちはガリラヤに帰り、宣教など頭にないかのように、ペトロは言うのだ。「わたしは漁をすることに行く」と。これでは、復活のイエスの福音を伝えることはできないではないかと思えてくる。復活のイエスに出会い、送り出されたはずなのに、ペトロたちは「漁をすることに行く」と言うのだ。イエスに出会う前の自分の日常に戻ってしまったかのようである。福音を宣べ伝えなくて良いのかと思える箇所である。その弟子たちに、イエスが三度目に現れて、彼らの漁の方向を指示し、備えておられたパンと小魚に加えて、彼らの漁の成果を受け入れ、彼らに与えるのである。彼らの日常にイエスは現れたのだ。ここにおいて、彼らの日常は復活の日常へと変えられたと言えるであろう。そして、彼らの日常が復活の日常となった。日常が復活した。生き生きとした日常へと変化した。日常の復活である。

ペトロたちが、イエスの復活後、ガリラヤへ帰っていたのも、未だ彼らはイエスの復活を日常的に生きてはいなかったということである。「漁をすることに行く」というペトロの言葉には、日常と復活の出来事とが結びつかないままに、日常は日常、復活は復活となっていた彼らの現実が現れている。しかし、ここでイエスが三度目に現れて、彼らの日常を復活の日常とし、日常の復活を生きるようにしてくださった。これ以降、弟子たちは日常の中で復活を生きるようにされたのである。日常を復活者と共に生きる者にされた。彼らの日常は変わった。復活者が共にいてくださる日常に変わった。

復活者イエスに出会っても、弟子たちは日常の生活はそのままに、礼拝の日、主の日だけ復活者に出会う日として守っていたことであろう。しかし、イエスは彼らの日常と礼拝の日を分ける生き方に対して、三度目に顕現してくださったのだ。彼らが日常的に復活を生きるように、日常的に復活者イエスと共に生きるようにしてくださった。それが、今日の出来事なのである。

イエスが、小魚を求めるのはどうしてなのかと訝しく思うものである。小魚という日常的な食事の付け合わせなどどうでも良いのではないかと思える。イエスはどうしてこんな些細なことにこだわるのだろうかと思える。しかし、我々の生活は、些細なことの積み重ねである。毎日食べなければならない。毎日仕事をしなければならない。毎日、家事をしなければならない。それらの仕事と復活者を宣べ伝える宣教とはまったく性質の違う事柄だと思いがちである。ところが、イエスは弟子たちの日常に顕現し、日常において復活者と共に生きる道を開いてくださった。宣教は特別なことだけではなく、日常において行われる主の御業を生きることなのだと教えてくださった。主イエスは、我々の日常をご自身の臨在の場所としてくださる。我々は、日常を主と共に生きる。日常を復活として生きる。日常が新しいいのちの場として輝く。復活の出来事が我々の日常を変える。これが、主イエスが今日弟子たちの上に起こし給うた日常の復活なのである。

小魚を求めるイエスは、小魚を準備しておられて、それに弟子たちの小魚を加えてくださる。ご自身の業に弟子たちの些細な働きを加えてくださる。我々は大きなことを求める必要はない。我々の日常が復活の日常となった。我々は日常において復活を生きることができる。復活を宣べ伝えることができる。なぜなら、主イエスは我々の日常に生きて働いておられるからである。

特別な日を求める必要はない。日常が復活の日常となることが必要なのである。そのために、主イエスは今日弟子たちに現れてくださったのだ。我々が些細なことと考えてしまう日常。しかし、主はその些細なことをご自身の業と共に祝福してくださる。使徒パウロもローマの信徒への手紙14章6節~8節でこう語っている。「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と。パウロが言うとおり、復活の主はわたしの日常に、わたしの生涯に関わってくださる主なのである。特別なこと、日常的ではないことだけに、主が関わるのではない。わたしという存在に関わり、復活のいのちを与えてくださったのだから、わたしの日常は復活しているのだ。新しい日常に変えられているのだ。日常の復活を生きるのが、我々キリスト者なのである。

主イエス・キリストは、我々の日常を復活のうちに包んでくださるために、ご自身の体と血を与えてくださる。キリストの体と血は、わたしの日常のため、わたしの日常の積み重ねである人生のため、わたしという存在が復活を日々生きるために与えられる。今日もキリストの体と血に与って、明日からの日常を復活者イエスと共に生きていこう。あなたの日々は、主が祝福してくださる日々。新しいいのちに生きる日々。

祈ります。

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