「信仰の従順」

2018年4月22日(復活後第3主日)

ヨハネによる福音書21章15節~19節

 

「あなたは従いなさい、わたしに」とイエスはペトロに言う。いかなることが語られていようとも、最終的にはイエスに従うことが求められている。ペトロの死がいかなるものであろうと、ペトロの意志とは違うことが起ころうと、「あなたは従いなさい、わたしに」とイエスは言うのである。それがわたしを愛することなのだと、ペトロに語っているかのようである。

イエスを愛するがゆえに、イエスに従う。イエスに従うのは、イエスを愛しているからである。真実なる愛を生きるには、イエスに従うしかない。ペトロが三回も「わたしがあなたを愛していることをあなたが見て知っている」と答えても、従わないならば愛していることにはならない。イエスを愛するということは、言葉で答えることではなく、ただイエスに従うことである。それが信仰の従順である。

信じることは信じている相手に従うということにおいて現れる。従わないならば、信じていない。従えないならば、他のものを愛している。他の福音書でもそのような人のことが語られていた。イエスに従うと口では言いながら、父の葬式を出さなければと言う人には、死人に任せよと言い、家族に別れを言ってからと言うような人は、鋤に手をかけてから後ろを振り返る者だとイエスはおっしゃっている。従う者はすぐに従う。何かをしてから、心残りを取り除いてからと言っている間は、イエスに従うことよりも、何かを優先している。心残りを優先している。それらの方を愛している。信仰においては、愛と従順とは一つである。信じているならば、すべてを信頼し、すべてを愛し、すべてを委ねる。それが信仰である。イエスに従わない信仰など信仰ではない。

イエスはペトロに最初に尋ねたではないか。「これらの人たちより以上に、あなたはわたしを愛しているか」と。イエスを愛するとは、他の誰かと比べることなどできないほどに、愛することである。「わたしだけを愛しているか」とイエスはおっしゃったのだ。ペトロはそこで「はい」とは答えられなかった。「あなたが見て知っておられます、わたしがあなたを愛していることを」と答えている。ペトロには「はい」と答える自信がなかったのか、イエスに委ねている。自分で判断できない。それで、イエスは三度もペトロに聞いた、確認させるかのように。

我々もイエスを愛しているかどうか自信がなくなるものである。わたしはイエスを愛しているのか、教会の仲間を愛しているのか、教会での働きを愛しているのか。洗礼を受けたときは、イエスを愛していたであろう。次第に、教会に慣れてくると、教会の交わりを愛し、仲間を愛し、働きを与えられていることに喜びを感じ、イエスを愛して従ったことを忘れるものである。教会の活動に一生懸命になればなるほど、自分が何を愛しているのかが分からなくなるものである。我々は本当にイエスを愛しているのだろうか。

イエスは、ペトロたちの日常を復活のいのちに生きるようにしてくださった。イエスが復活した主の日の礼拝を守りつつも、平日は平日であったペトロたち。復活のいのちが日常に生きてはいなかった。それゆえに、イエスは日常において彼らに現れ、彼らの日常を復活させてくださった。そこで、イエスはペトロに聞く。「あなたはわたしを愛しているか、これらの人たちより以上に」と。

ペトロは「あなたは見て知っておられます、わたしがあなたを愛していることを」と答えた。ペトロは、イエスが見て知っていると言う。それは過去のペトロである。これまでのペトロである。復活の日常を生きてはいなかったペトロである。ペトロは復活のイエスが現れた後も、イエスに従うところには至っていなかった。イエスは、そのようなペトロを見て知っている。それゆえに言う。「わたしの小羊を食べさせなさい」と。次には「わたしの羊の世話をしなさい」と言い、三度目には「わたしの羊を食べさせなさい」と言う。わたしを愛するということは、小羊を食べさせて大きくなった羊の世話をすることであり、また食べさせることであると言う。

ペトロはこの直前に「わたしは漁をすることに行く」と言っていた。そのペトロに羊飼いの仕事をせよと、イエスは言うのだ。ペトロの日常が復活したところで、漁師ではなく、羊飼いになるようにと言うのだ。これはおかしなことではないか。漁師の仕事を行えとは言わない。漁師に向かって、羊飼いのようにわたしの小羊を食べさせ、世話をして、食べさせなさいと言う。彼の日常とは全く違う仕事を与えるのだ。他の福音書では、「人間の漁師にしよう」とおっしゃっていたのに、ヨハネでは「人間の羊飼いにしよう」と言うかの如くである。

この前の箇所では、イエスの指示に従って、大量の魚が獲れた。魚を獲ることはイエスの力であり、集められたイエスのものが育てられるために仕えることが羊飼いの仕事である。集めるよりも、世話をすることをイエスは求めておられるようである。集めることは、十把一絡げに一つの網で行うことができる。しかし、食べさせ、世話をすることは、一匹ごとに向き合うことである。ペトロがイエスを愛することを生きるために、イエスは羊の世話という職務を与えるかのようである。そうなのだ。職務を与え給うた主を愛するように、職務に仕えるためである。教会の活動も同じように、主を愛するように行われる活動である。交わりを愛するのではない。仲間を愛するのでもない。イエスを愛するがゆえに、他者の世話をし、他者のために祈り、他者の存在を守る。イエスを愛する人は、そのように生きるであろう。それが信仰の従順の内実である。

そのように生きる人は、自分の意志通りに生きることはないであろう。他者の意志に支配されているかのように、誰かに連れて行かれるであろう、行きたくないところへ。それでも、イエスを愛するがゆえに、従順に受け入れる。イエスを愛するがゆえに、自分の意志とは違っていても良しとする。従順であることは、自分の意志など関係ないということである。イエスを愛することにおいて、いかなることも神の意志と受け入れるからである。そのとき、我々は自分の意志で死ぬことはない。誰かに殺されることであろうと、自然に死ぬことであろうと、自分の意志で死ぬことはない。すべては神が支配しておられる。自分の意志が優先されることでより良く生き、より良く死ぬと考えるならば、それこそ自分を愛しているのである、イエスよりも。

究極的には、我々は自分を愛する者である。しかし、我々がイエスを愛するということは、イエスを愛するがゆえに、すべてを受け入れることである。それが信仰の従順であり、イエスを愛することである。ペトロが漁師であるにも関わらず、羊飼いの職務を与えられることも、ペトロの意志とはまったく違うことをさせられることである。自分の意志とは違うことを通して、イエスを愛することを学ぶのであり、イエスに従うのである。イエスご自身も、ご自分の意志ではなく、神の意志がなるようにと十字架を引き受けられたのだから。神を愛するがゆえに、ご自分の意志ではないことを引き受けられたイエスがペトロに言うのだ。「他の人が、あなたの意志しないところへ連れて行くであろう」と。それはイエスも同じであった。イエスはあの十字架を通して、神を愛することを生きたのだ。それゆえに、ペトロに言う。あなたの意志ではないことを引き受けざるを得ないことを通して、神を愛し、わたしを愛することを生きるのだと。それが「神に栄光を帰す」ということであり、信仰の従順を生きることなのである。

我々が信仰を生きるということは、自分の意志が悪であることを認めて、善なる神の意志に従うことである。すべてを神の意志と受け入れることである。そのとき、我々はイエスを愛することのみを第一として生きるであろう。あなたを愛し、ご自身を十字架に引き渡し給うたお方の愛が、あなたを促し、生かし、永遠のいのちへと導いてくださる。あなたは、キリストのもの。キリストは神のもの。神はすべてにおいてすべであるお方。このお方が起こしてくださった信仰の従順のうちに共に生きて行こう。

祈ります。

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