「愛を紡ぐ愛」

2018年4月29日(復活後第4主日)

ヨハネによる福音書15章1節~10節

 

「そのように、あなたがたは実をもたらすことができない、わたしのうちに留まらないならば。」とイエスは言う。さらに、「あなたがたは留まりなさい、わたしの愛のうちに」と言う。ブドウの枝がブドウの幹に留まっていれば必然的に実を結ぶように、イエスのうちに留まることであなたがたは実を結ぶことができるとおっしゃる。イエスのうちに留まることは、イエスの愛のうちに留まることであり、弟子たちは必然的に愛の実を結ぶということである。イエスご自身が父の愛のうちに留まり、弟子たちを愛したように、彼らも必然的に愛するようにされる。イエスの愛は、父なる神に紡ぎ出された愛。その愛のうちに留まるならば、愛が紡ぎ出されるとイエスは言う。それが次の箇所で語られる「互いを愛する」という命令、掟である。どうしてなのだろうか。命令は、必然的な事柄だということである。

我々は命令や掟は、「しなければならない」ことだと思ってしまう。しかし、しなければならないことを命ずるということは、必然的にするであろうことを命じているのである。我々は、行わないならば、罰せられると思って、仕方なく行うのが命令なのだと思っている。しかし、命令は当然なすべきことが語られているのだから、我々の思いや力は問われていない。むしろ、命ずるお方の意志がそこにあると語っているのが命令であり掟なのである。

ブドウの枝は「実を結ばなければならない」とは考えない。幹から与えられる栄養をいただいているならば必然的に実を結ぶのである。命令、掟とはこれと同じことなのである。ブドウの幹はブドウの枝の能力を考えてはいない。ただ、栄養を注ぎ続ける、実を結ばせるために。それが父の愛が紡いだイエスの愛であり、イエスの愛は我々を愛する者として紡ぐ愛なのである。イエスはこの愛に留まることを求めておられる。「掟を守る」ということは留まった結果であって、留まることがもたらす実である。我々はイエスの愛に留まっていれば、必然的に掟を守る者として形作られるのである。

では、「イエスの愛のうちに留まる」とはどういうことであろうか。「留まる」というギリシア語メノーは「住む」ことを意味している。つまり、生活することである。イエスの愛のうちに住み、生活すること。それが「イエスの愛のうちに留まる」ということである。それが分かるのは「掟を守る」ことによってであるとイエスは言う。もたらされる実は「掟を守る」ことなのである。だから、イエスの愛のうちに住み、生活していることが分かるのは、掟を守っていることによってだと言うのである。結果からその人の状態が分かると言われているのだから、我々はイエスに分かってもらえるために、掟を守らなければならないと考えてしまう。外に投げ捨てられないために掟を守らなければならないと考えてしまう。こうして、結果から始めようとする。そして、本末転倒に陥る。これが罪の現れである。

我々は認められることを求めている。誰でも認められたい。それゆえに、認められるために何かを行うことが生じる。そのとき、我々は行うことを生きていない。結果が出れば良いと考えるのだから、結果までの過程を生きてはいない。努力はできるだけ小さく、結果はできるだけ大きくと思うのである。それが効率的なことだと考える。ブドウの枝は効率など考えてはいない。ブドウの枝はただ幹に留まっている。それだけが自分が生きることだと知っている。このような実がもたらされたのは自分が幹に留まっていたからだと誰かに分かってもらおうなどとは考えていない。ひたすら幹に留まっている。それだけがブドウの枝がブドウの木に住むことであり、幹に留まって生活することなのである。同じように、我々がブドウの枝だとイエスはおっしゃるのだから、イエスにひたすら留まって生活することが枝として生きることなのである。

ブドウの枝は認められるために枝なのではない。実を結ぶために枝とされているのである。実は自分のために結ばれるものではない。実は誰かのためにもたらすものである。ギリシア語の実を結ぶという言葉はフェローという言葉で、「運ぶ」、「もたらす」という意味である。実は自分のために貯め込む貯金ではない。たくさん貯め込めば、たくさん認められるというようなものではないのだ。実は誰かに提供されるものなのである。提供されたならば、また実をもたらし、提供する。それだけがブドウの枝の使命である。それがブドウの枝が生きているということである。

イエスの命令である掟は、我々が生きるべき使命である。使命と聞くと、これまた使命を果たさなければと躍起になる。ブドウの枝が十分栄養を満たされたならば、必然的に実をもたらすように、使命は躍起になっても果たせるものではない。ブドウの幹にしっかり留まっていれば、必然的に実をもたらす。それだけなのだ。躍起になったところで何もできないであろう。できるとすれば、自分の力を誇り、他者を蔑むことくらいである。それではブドウの枝ではない。実をもたらすこともない。イエスの愛がわたしの愛を紡いでくださるのだ。あなたが躍起になって愛そうとしても、それは紡がれた愛ではない。あなたが自分を認めてもらうための押しつけでしかない。愛された相手も迷惑であろう。いや、愛されたなどとは思わないであろう。むしろ、不自然で、不愉快になるのが関の山である。躍起になればなるほど空回りしてしまう。自分がイエスに留まっていることを見せようとしているだけなのだから、愛することはその道具に過ぎない。それを実とは言わないのである。

我々はひたすらイエスの愛のうちに留まるだけなのだ。イエスの言葉を聞き、イエスの説教にはぐくまれ、父なる神の愛の世界に生かされていることを喜び生きるだけなのだ。そのとき、あなたは実をもたらす枝として生きている。イエスがおっしゃったように、あなたがたはブドウの枝なのだ。イエスという幹から生じたブドウの枝なのだ。イエスの愛から紡がれた存在なのだ。イエスの愛のうちに留まるようにと造られた存在なのだ。イエスなしには何もできない者なのだ。イエスなしには何者でもない。イエスが愛してくださったがゆえに、実をもたらすことができる枝として生かされている。わたし一人では何もできはしない。イエスがおられなければ、わたしは外に投げ捨てられる枯れた枝である。その枯れそうな枝をイエスは憐れみ、ご自身の愛に留まる枝として再創造してくださった。これが十字架なのである。

十字架の前にひれ伏して、何者でもないわたしを愛してくださったイエスのうちに留まろう。何者でもなく、何もできないわたしを愛する者として造ってくださるイエスの愛のうちに留まろう。躍起になって留まる必要はない。あなたはすでにブドウの枝とされているのだから、ブドウの枝なのだと信頼していれば良い。誰かに「本当にイエスのうちに留まっているのか」と言われても、こう答えれば良い。「あなたはブドウの枝なのだと、イエスがおっしゃってくださった。誰が何と言おうとも、イエスがおっしゃってくださったのだから、それは真実である。わたしがブドウの枝になったのではない。イエスがそうしてくださったのだ。わたしはイエスの言葉に信頼している」と。あなたを愛する者として紡いでくださるのはイエスの愛である。イエスの愛はイエスの言葉に宿っている。イエスの言葉を聞くとき、あなたはイエスの愛の紡ぎに与っている。イエスの言葉があなたを愛する者として創造してくださる。イエスの言葉、イエスの愛、イエスの力に信頼していれば良い。この信頼を信仰と呼ぶのである。

イエスは、我々を愛する者として紡ぐために、ご自身の体と血を与えてくださる。イエスがおっしゃる言葉を純粋に聞き、「アーメン」と受けるとき、あなたのうちにイエスの愛が入来たる。イエスご自身があなたのうちに住み給う。イエスご自身があなたのうちに愛をもたらし給う。あなたのために与えられた体をいただき、あなたの罪のために流された血に与ろう。あなたはイエスのブドウの枝。愛を紡ぐ愛に生かされる者。イエスの愛のうちに喜び生きて行こう。

祈ります。

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