「置かれたる魂」

2018年5月6日(復活後第5主日)

ヨハネによる福音書15章11節~17節

 

「このような大きな愛を誰も持っていない。誰かが彼の友たちのために彼の魂を置くというような愛を」とイエスは言う。さらに、16節では「あなたがたがわたしを選んだのではない。むしろ、わたしがあなたがたを選んだ。そして、わたしがあなたがたを置いた。」ともイエスは語っている。イエスは弟子たちを友と呼ぶとおっしゃり、その友のためにご自身の魂であるいのちを置いたのである。さらに、弟子たちがイエスご自身の魂を置かれた存在として選ばれたと言う。そして、彼らはイエスによって置かれた。イエスに友と呼ばれた存在が、イエスによって置かれた存在だと言われている。イエスがその人のためにご自分の魂を置いた存在は、イエスによって置かれている、出かけていくように、そして実をもたらすように、さらに実が留まるように。これらは、イエスが置いたイエスご自身の魂の力である。我々キリスト者はイエスの置かれたる魂の力に与って、キリスト者なのであり、キリストのように形作られる存在である。それが選びであり、イエスと同じように置かれる魂として生きることである。

もちろん、イエスはご自身のいのちである魂をご自身の力によって置いた。この出来事は「捨てる」と訳されている。「いのちを捨てる」ということは、誰にでも使用可能なようにすべての人の前に置くということである。イエスはご自身のいのちである魂をすべての人が使用可能となるように置いたお方である。これが十字架の出来事。しかし、我々キリスト者は、自分でいのちである魂を置くことなどできない。むしろ、キリストによって置かれて、置くのである。キリストによって捨てさせられることを捨てるのである。キリストによって十字架を取らせられることを取るのである。イエスがおっしゃるように「わたしがあなたがたを選んだ」からである。

選びとは、わたしがイエスを選ぶことではない。イエスがわたしを選ぶことを受け取ることである。この受け取りが生じるとき、我々は選ばれたことを選び取ると言える。受け取らず、自分が選ばれようとするとき、我々は自分がイエスを選ぶところに立とうとする。そのとき、イエスの選びをわたしは受け取ることはできない。そして、イエスによって置かれることを置くことはない。こうして、我々は自分のために魂を置いてくださったお方の魂を受け取ることなく、自分の魂を差し出すこともなく、自分の世界だけで生きることになる。我々にイエスは必要ないお方となる。あるいは、イエスは付け足しとなる。イエスが主体ではなく、わたしが主体となる。これを信仰とは呼ばない。信仰とは神と主イエスに対する従順のことだからである。

イエスがわたしのために魂を置いてくださったのは、わたしがイエスの魂を受け取るためである。受け取られたイエスの魂が、わたしの魂を他者のために置くように働く。この働きを受ける魂は、捨てられていなければならない。自分のためにしっかりと握られているならば、捨てることはできず、置かせるイエスの働きを受けることはできない。そして、実をもたらすことなく、自分のうちに蓄えるだけで、誰をも生かすことはない。イエスの働きとしての実が留まることはない。あくまで、自分の働きとしての実を積み上げて、自慢を膨らませる。そのとき、実は他者にもたらされず、他者を生かすことなく、自分を膨れあがらせるだけ。これを貪欲と呼ぶ。このような貪欲の罪に陥っている者は、選ばれておらず、置かれることを受け入れることなく、自分の道を進み続ける。イエスの任命を生きることはできない。

我々は、イエスがおっしゃるように、イエスの喜びを受け取ることがなければ、わたしの喜びを生きることはできない。イエスの喜びは、わたしを友と呼ぶほどに愛し、ご自身の魂をわたしのために置いてくださることである。イエスのこの喜びを受け取っている者は、イエスと同じように自分の魂が誰かのために置かれることを喜ぶであろう。誰かのために実をもたらすことを喜ぶであろう。それは仕方なく行うことではなく、喜んでイエスに差し出される魂だからである。イエスに差し出されたわたしの魂が他者のために置かれる。イエスに置かれたる魂は、イエスと同じように神に用いられる魂となる。喜んで神に用いられる魂として生きる。イエスはそのために、ご自分の魂を置いてくださったのだ。

我々はイエスに置かれたわたしの魂を、置かれたところで生きる。そのとき、わたしの魂が実をもたらすものとなる。先に語られていたぶどうの枝が幹に留まっていることで実をもたらすのと同じように、イエスに置かれることを置く魂は必ず実をもたらす、イエスと同じように。それがありのままの真実を生きるぶどうの木、主イエスというぶどうの木の働きなのである。

主は、我々をご自分の体である幹に留まる枝としてくださった。それが「わたしがあなたがたを置いた」とおっしゃっている事柄である。我々は、イエスという木に枝として置かれたのだ。それゆえに、我々は必然的に実をもたらす。置いてくださったお方に従っている限り、実をもたらさないなどということはない。イエスは、このわたしがイエスの枝として実をもたらすようにと、いのちを供給してくださる。イエスの魂を供給してくださる。イエスの魂は、わたしの魂の原動力なのである。

イエスという幹から枝であるわたしに流れ込んでくるのがイエスの魂、イエスのいのち。このいのちに力を与えられ、促されて、わたしは自分の魂が置かれたところで生きる。置かれたところに留まって生きる。選ばれたことを生きる。イエスが選んでくださったことを受け取って生きる。我々がイエスを選び、イエスに従うのではない。イエスがわたしを選んだ愛のうちに留まり、イエスの選びの愛をもたらす者として生きる。その愛は、わたしの愛ではない。イエスの愛である。わたしが誰かを愛するのではない。イエスがわたしのうちにあって、その人を愛するのである。なぜなら、わたしのうちにはイエスの愛が注ぎ込まれているからである。

我々がもたらす実は、イエスというお方の愛の実。イエスが愛し給う一人ひとりにもたらされる実。その実は永遠に留まるであろう。永遠に留まり、愛を供給し続けるであろう。イエスはそうおっしゃっているのである。

このイエスの言を聴いている者は、イエスの愛を受け取っている。自分が愛さなければならないと考える者はイエスの言を聴いてはいない。イエスの魂を受け取ってはいない。イエスは「何でも与えられる」とおっしゃっているではないか。愛することができないわたしが愛することを与えられて愛するのだ。何もないわたしがイエスの魂に満たされて、愛するのだ。罪深いわたしがイエスの愛に促されて、愛するのだ。イエスの愛がすべてである。イエスの愛が主体である。イエスの愛が愛するのだ。

我々がイエスの名において、父なる神に願うことは、我々にはないものである。我々のうちから出てくることがないものである。我々のうちから神の愛が出てくることなどない。人間的な友愛と情愛以外には出てくることはないのだ。友愛も情愛も、対象を選ぶ愛である。神の愛は対象を選ばない。むしろ、対象を作り出す。それゆえに、我々は神によって愛された者であるなら、神によって造られた者なのである。愛する者として造られた者なのである。この再創造の御業がキリストの十字架である。

キリストの十字架から溢れ流れる神の愛が、我々を満たし、溢れさせ、一つとし給う。あなたは神に愛されて、愛する者として造られている。あなたが受け取った神の愛によって造られている。この愛のうちに留まろう。神は、あなたを愛する者として造ることを喜びとなさる。あなたのうちに神の喜び、キリストの喜びが満たされることを喜びとなさる。そのためにキリストの体と血が与えられる。キリストがあなたのために置いてくださった魂をいただき、キリストに置かれたる魂として生きて行こう。置かれたところで、置かれたように、置いてくださったお方の魂を、いのちを生きて行こう。キリストはあなたを愛し、選んでくださった。キリストはあなたのうちに生きてくださる、愛を溢れさせて。

祈ります。

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