「死語生言」

2018年5月13日(主の昇天主日)

ルカによる福音書24章44節~53節

 

「わたしがまだあなたがたと共にいた頃、あなたがたに向かってわたしが語ったこれらのわたしの言葉たちは、すなわち、モーセの律法と預言者たちと詩編のうちに、わたしについて書かれてしまっているすべてのことは満たされることになっているという言葉たちである」とイエスは言う。イエスについて書かれてしまっている言葉は、満たされることになっている言葉であるとイエスは言う。イエスが語った言葉は、書かれてしまっている言葉の満たされるということだったとイエスは弟子たちに思い起こさせている。イエスの言葉として記されている新約聖書ではなく、旧約聖書としてモーセ、預言者、詩編作者たちが書いてしまっていた言葉は満たされる言葉なのである。イエスは、書かれてしまっている言葉が満たされる必然性を弟子たちに語ったのだ。それはどういうことであろうか。

書かれてしまっている言葉は、本という形で残されても死んだ言葉である。モーセや預言者や詩編作者が書き記した時点では、彼らには生きている言として聞こえてきた。しかし、その言葉を書き記した時点で、それは固定化され、過去の言葉として記録されているだけになる。その言葉を読む者に何らかの働きをなす言葉となるか否かは、書かれてしまっている言葉の力ではない。その言葉が書かれてしまっているとしても生きている言葉として、何かによって活性化されているがゆえに、生きた言として働くのである。

この活性化はどのようにして起こるのであろうか。イエスがおっしゃるように、それは必然的に起こるのであって、満たされることになっているというだけである。もちろん、満たされるという受動態が表しているのは、能動者としての神の働きである。従って、神の必然的な働きによって満たされることになっているのが、イエスについて書かれてしまっている旧約聖書の言葉たちなのである。それは死んだ語りとなっていた書かれた言葉が生ける言となるということである。死んでしまった語りとは、書かれることで生じる。書かれる言葉は、語りを聞いて書き留めるものである。それは神の語りを聞いたモーセ、預言者、詩編作者たちが書き留めたものである。書き留めた時点で、聞こえてきた神の語りは文字として定着し、残される。それだけでは、他の人間にとっては記録でしかなく、語りではない。文字は死んだ語りである。

ところがその文字があるがゆえに、直接的に聞かなかった者もモーセが聞き、預言者が聞いた言葉、詩編作者たちが聞いた言葉を読むことができる。その際、ただの記録として読む場合と、書かれてしまっている言葉が自らのうちで生きて働く場合とでは違いが生じる。生きて働く場合はその人を生かし、記録として読まれる場合はその人を知識に膨れあがらせる。知識に膨れあがったとき、人間は生ける言葉を聞くことはなく、その人から何かを聞く人も知識としてのみ受け取るだけであろう。その場合、死んだ語りは死んだ語りのままである。

一方で、生きた言葉として聞く場合、書かれてしまっている言葉が自分に語りかける言葉として聞こえてくる。その場合、書かれてしまっている死んだ語りが生ける語りとして活性化するのである。我々が聖書の言葉を聞いて、信仰が強められる場合は後者である。

文字は文字である。「文字は殺し、霊は生かす」と使徒パウロは語ったが、文字が殺す場合は知識に膨れあがり、傲慢になり、自分はすべてを理解したと思い上がるときである。そのとき、我々は文字に殺されている。文字は我々が使う道具、傲慢の手段となり、悪魔に使われて我々を殺すであろう。しかし、書かれてしまっている文字を「霊が生かす」場合は、書かれてしまっている文字が神の語りかけとして活性化され、我々の罪を認めさせ、福音において我々を励まし、信仰を強め、神に信頼して歩む力を与える。「わたしについて書かれてしまっている言葉」とは福音において書かれてしまっている言葉なのである。その言葉は旧約聖書に書かれてしまっている福音なのだとイエスは言うのだ。

書かれてしまっている文字が生かす語りかけの言として活性化するために、イエスは聖書を理解する理性を開いたと記されている。これが聖霊が与えられることである。ところが、この聖霊は未だ降ってはいない。降っていないのに、イエスは聖書を理解する理性を開いた。ということは、聖霊は開かれた理性に満たされるということである。

心の目を開いたと訳されている言葉は、理性を開いたである。つまり、我々の自然的理性は閉じられていることを示している。あるいは、自然的理性では聖書を理解することはできないということを示している。自然的理性は閉じられた人間的世界だけを理解する理性。開かれた理性とは開かれた神的世界を理解する理性。その理性のうちに聖霊が満たされるとき、外へと溢れ出して行くのである。それが聖霊降臨の出来事である。

その前に、イエスはまず閉じられていた理性を開いた。それがイエスの昇天が指し示す事柄なのである。イエスの昇天は、天と地の一切の権能を授けられたとマタイによる福音書28章で語られている事柄なのである。天から降り、天へと昇り、再び天から降るイエスが、使徒言行録1章には記されている。イエスの昇天は、天と地の隔たり、天と地の違いが克服されたことを表している。イエスの昇天によって、天も地もイエスのおられないところはなくなった。天も地も一つとなった。それは地上を生きていても天を生きることができるということであり、天を生きていても地上を生きることができるということである。イエスの昇天において、天と地は一つとなり、我々は天と地の一なる世界を生きることができるということである。黙示録21章に語られているように、最初の天と地は去り、新しい天と地を見るということである。この地点へと向かって歩むのがキリスト者である。イエスの昇天は、我々が向かうべきこの地点を開いた出来事なのである。

そのときには、書かれてしまっている言葉が生ける語りかけとして常に我々に聞こえてくる。我々は週ごとに神の語りかけを聞くために集められ、励まされ、信仰を新たにされて、その地点を目指して歩み続ける力を受けるのである。書かれてしまっている言葉は死んだ語りではなく、生ける語りかけの言として我々を導く。生きている言が我々を励ます。生きて働く言が我々を死せる罪から解放する。イエスが天に昇られたがゆえに、書かれてしまっている言は、我々のうちに生ける言として満たされる。開かれた理性のうちに満たされる。

我々の理性を開き給うのはイエスである。他の誰であろうとも開くことはできない。イエスのみが我々の理性を開き、生ける言を受け取ることができるようにしてくださる。それが十字架の出来事だとイエスは言うのだ。キリストが受難し、三日目に死者たちから立ち上がるという十字架と復活の出来事が我々の理性を開く。十字架と復活は理性では理解できない出来事である。それゆえに、理性が閉じられていることを十字架は示している。我々が自然的理性で理解しようとするならば、理解できないままに放置される。しかし、理解できないことを受け入れ、イエスの前にひれ伏すならば、イエスは我々の閉じられた理性を開いてくださる。罪を認めるならば、罪を赦してくださる。罪の赦しは罪を認めなければ受け取ることはできない。罪を認めるということは、わたしの罪を指し示す言葉として書かれてしまっている言葉、聖書の言葉を聞くということである。そのとき、神の言は生きて働くであろう。

そのように聞く者として我々を開くのはイエスの語りであり、聖霊である。イエスの語りが理性を開き、生ける言として働くままに聖霊が理性のうちに満たされる。聖霊降臨は、この聖霊の満たしが外へと溢れ出る出来事なのである。イエスの昇天において開かれた新しい世界に向かって、我々の理性が開かれるために、イエスは常に語りかけてくださっている。日ごとにイエスの生ける言を聞く理性が開かれる。あなたのうちなる人が日々新たにされていきますように。

祈ります。

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