「信仰の力」

2018年5月20日(聖霊降臨日)

ヨハネによる福音書15章26節~16章4節a

 

「しかし、これらのことをあなたがたにわたしが語ってしまっている。彼らのときが来たとき、わたしがあなたがたに語ったことを、彼らのものとしてあなたがたが思い起こすために。」とイエスは言う。これらのこととは、別の弁護者、慰め主、励まし手をイエスが派遣することである。しかし、迫害者たちが弟子たちを迫害することも起こる。それでも、励まし手が来たるときに、イエスがそれらについて語ってしまっていると思い起こすようになるとイエスは言う。イエスが語った過去が確定され、完了されていたことを思い起こさせるのが聖霊である。

しかし、聖霊が来るまでは、弟子たちは不安の中に置かれるであろう。未だ来ていないのだから、不安の中に居続けるのである。この不安をどうして先に解消しておかないのだろうか。先に解消しておけば、そのときが来るまで待つ必要はないではないか。ところが、待つということは大事なことなのである。なぜなら、待つことにおいて、神のときを受け入れることができるように整えられるからである。不安の経験を通して、聖霊は彼らの不安の前にイエスが確定していたことがあったのだと思い起こさせるであろう。その経験を通して、その後の歩みは確かになっていく。その後に不安に陥ることがあろうとも、聖霊による励ましの経験が弟子たちの歩みを確かにする力となるからである。

イエスは弟子たちにその経験を備えてくださった。経験することが彼らに確信を与えるであろうと。それが信仰の力である。信仰とは、神から来たるものであり、神の力によって確信を与えられる出来事である。それゆえに、聖霊がイエスの派遣によって来たるように、信仰の力は我々人間からは出てこない。我々人間の信仰は、我々が信じていると思い込んでいる事柄である。しかし、真実の信仰は我々の思い込みではない。神から来たる信仰は我々が感じることでもない。イエスによって開かれた霊的理性における受容の出来事である。

ルカによる福音書に記されているように、イエスが霊的理性を開いてくださったがゆえに、開かれた霊的理性において神の出来事を受け取るのである。この受け取りこそが、聖霊降臨の出来事なのである。自然的理性では受け取ることができない神の出来事を霊的理性は受け取る。受け取るということは、何かを自分の感覚で感じることではない。感じる必要もない。ただ聞いているからである。そうでしかあり得ないと聞いているだけの信仰である。この信仰においては、わたしが信じていると感じることはない。感じる信仰はわたしが感じることができる範囲に限られる。わたしが感じなくなったときには、わたしは自分の信仰を疑うであろう。自分が何を信じていたのかも分からなくなる。信仰におけるつまずきが生じるのは、このような信仰においてである。しかし、神が与えて、信じさせてくださる信仰は、感じなくとも信じている信仰である。そのような信仰は、わたしに感じられない信仰であり、わたしが信じているとは言い難い。それゆえに、確かなのである。わたしが信じていることなど不確かである。わたしの感覚など、時代や周りの状況によって変化してしまうからである。変化してしまう信仰を信仰とは呼ばない。わたしの感覚に従わない信仰は変化しない信仰である。マルティン・ルターはこの信仰を「注入された信仰」と呼んだ。反対に、わたしが感じる信仰を「獲得された信仰」と呼んだ。獲得された信仰は悪だけを行うとルターは語っている。注入された信仰だけが、人を義とするに十分な信仰だと語っている。

我々が自分の信仰に不安を感じ、何を信じているのかも分からなくなったときこそ、注入された信仰が働くのである。その信仰は、イエスがおっしゃった言葉を思い起こす信仰である。わたしが迫害や苦難に面して不安になろうとも、イエスがおっしゃったのだと信じる信仰である。その信仰はイエスがおっしゃったということに確信を持っているので、わたしが信じられるということとは違う。イエスがおっしゃったのだから、その通りであると受け入れるのである。そのために、イエスは弟子たちに語ってしまっているとおっしゃった。弟子たちが不安の中でイエスがおっしゃった言葉を思い起こすとき、彼らは真実に信仰を生きることができる。

聖霊降臨の出来事は、使徒言行録に記されているが、この出来事を読むと、我々はこのような燃える信仰を生きて行きたいと思うものである。しかし、使徒言行録に記されているのは、燃える信仰ではなく、理性的な信仰である。なぜなら、ペトロが立って人々に語るのは、理性的な言葉だからである。燃える信仰は、燃えていると感じる信仰であって、酒に酔っているような信仰である。しかし、ペトロが言うように、酒に酔っているのではない信仰は、聖書に書かれてしまっていることが生じたと受け取る信仰なのである。聖書に従って、自らの上に起こっていることを判断する理性的な信仰である。

ところが、端から見ている人には、酒に酔っているとしか見えない。どうしてであろうか。それは、多くの人たちが神の偉大な業を語るということが起こったからである。それは燃えて語るということではなく、むしろ理性的に語っているのである。そのように理性的に受け止める人たちもいたのだ。だからこそ、そのような人たちは彼らが語ることを受け入れることが可能となり、洗礼を受けることになった。理性的に受け取った人たちには聖霊が働いていた。酒に酔っていると感じた人たちには聖霊は働かなかった。それだけである。

我々はあくまで聖書の言に従う。我々の感覚には従わない。神の言に従い、イエスが語った言に従う。それがイエスが派遣するとおっしゃった聖霊による信仰である。聖霊は、個人的な感覚に従うことを拒否する。あくまでみことばに従って生きるように導く。これが聖霊降臨の出来事なのである。

では、他の国の言葉で神の言葉を語るという出来事はいったい何なのだろうか。これも理性的な働きである。ユダヤ人は、世界各地に離散していた。それゆえに、エルサレムには世界各地の言葉が入ってきていた。エルサレムに住んでいても、さまざまな地域の言葉が使われていた。もちろん、それらの言葉で神の偉大な業が語られるということに聖霊の働きがあることは事実である。それがどのようにして起こったのかは、今では分かり得ないとしても、それが起こったのだ。そして、今ではそれは起こらない。それはそれで良いことであって、さまざまな国の言葉で神の偉大な業が語られていればそれで良いのだ。この聖霊降臨日の出来事は、世界各地に宣教が行われるようになることを暗示している出来事。そのように世界に神の福音は宣べ伝えられている。我々のところにも神の福音は届いている。聖霊降臨の出来事から始まった宣教の働きは、神の言葉、神の偉大な業を語る言葉の宣教であることを忘れてはならない。

そのような宣教を行わせる力が聖霊の力である。それは信仰の力なのである。不安に沈んだ経験を越えて、イエスが語ってしまっていたことが確実であると受け取った信仰の力なのである。信仰は、我々に不安に打ち勝つ経験をなさせる神の力である。如何なる不安にも打ち勝つことができる。我々が感じる不安は絶対ではない。イエスが語り給うた言葉が確実である。イエスが語り給うたのだから、そうなるのだと信頼することが注入された信仰の働きなのである。

ルターは小教理問答書の使徒信条の解説でこう語っている。「私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださったことを。」と。自分の理性や力では信じることができないと信じているのである。それは自分の感覚ではない信仰である。神から来たる信仰は信じさせる力である。この信仰に入れられた者は、神の信仰の力によって何事も克服していくことが可能なのである。神はあなたにこの信仰を注いでくださった。今日もキリストの体と血に与り、歩み出そう、信仰の力によって。

祈ります。

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