「霊から生まれる」

2018年5月27日(三位一体主日)

ヨハネによる福音書3章1節~12節

 

「上から生まれることになっていると、わたしがあなたに語ったことに驚くな」と7節でイエスはニコデモに言う。「上から生まれる」とは「新たに生まれる」とも訳される言葉であるが、「上から」であれば神からということである。この「上から生まれることになっている」という必然に驚くのは「肉から生まれた者」であるとイエスは言うのである。

肉から生まれるということは、「上から生まれる」ことの反対であり、地上的な事柄として生まれることである。自然的人間は誰でも肉から生まれる。しかし、その人の霊的な認識が上から生まれるということに開かれるとき、自然的に生まれた人間であろうとも、上から新たに生まれることが可能なのだとイエスは言うのだ。上から生まれたとの認識が開かれるならば、自らの自然的な生まれも上からの生まれとして認識し直すことになる。神が生まれさせなければ生まれることはなかったのだと認識するからである。

地上的な生まれも上からの生まれと認識し直すことができるとすれば、単なる認識の変化なのだろうか。いや、認識の変化は霊的な出来事を経験して後の変化である。認識の変化だけが起こるということはない。単なる認識の変化であれば、その認識が変更されれば良いということになるが、その認識は魂にまで届いていないので、すぐに疑うことが生じる。感覚的には何の変化もないのだから、変化している感覚はない。ただ認識をその人が変更したというにすぎない。それゆえに、その人自身のものとはなっていないのである。なぜなら、われわれが認識の変化を被るときには、理性においても、感覚においても、変化したという認識が生じるからである。しかし、霊的な事柄は自然的理性によっては感じられない。感じられるとすれば、それは霊的理性が開かれたときである。それが霊から生まれるということなのである。それゆえにニコデモは霊的理性の開けを被っていないままに、自然的理性で考えているのであり、魂の底にまでは届いていない。ニコデモは自然的理性によってしか考えることができず、霊的事柄を受け入れることができないでいる。霊的理性の開けを受けるにはどうしたら良いのか。

そのように考えること自体が、自然的理性の判断である。自然的理性では、自分が何かを行えばその結果が伴ってくると考えるからである。しかし、霊的理性の判断では神の御業にすべてを委ねるのであり、神から来たるものを受け入れるだけである。その受け入れには判断は先行しない。まず受け入れる。受け入れて後、受け入れた霊的事柄に従って判断が生じる。受け入れて理解するのであり、理解し判断して受け入れるのではない。

信じるという出来事自体が神の御業であるとマルティン・ルターは語ったが、受け入れるということが信仰である。神の働きを受け入れることが信じることである。信仰は受け入れるとき同時に起こされている。受け入れと信仰とは同時であり、受け入れることで信仰が起こされるのではないし、信仰を起こされて受け入れるのでもない。同時なので順序を設定することはできない。

順序で考えるとき、われわれは順序に従って自分で整えれば良いと考えてしまう。こうして、受け入れも信仰も自然的理性によって把握可能なことと思い込むのである。受け入れることも信じることも自然的理性では把握できない。把握することで、われわれは自分の力で実行可能なのだと思うが、把握できないのだから実行不可能なのだ。マルティン・ルターは小教理問答書の中でこう言っている。「私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださったことを。」と。ここでルターは、信じることができないと信じているという自然的理性では矛盾したことを語っている。自然的理性では信じているならば信じているのである。信じることができないと信じるなどとどうして言うのであろうか。ここで最初に「信じている」と語られている事柄はわたしが信じていると言われているが、自分の力ではないということである。では誰の力なのか。神の力、聖霊の力によって信じているのである。信じることができないのは自分の力であり、信じているのは聖霊の力だということである。

このような矛盾した事柄が信仰の事柄であり、イエス・キリストがニコデモに語っていることも、信仰の事柄なのである。イエスはその説明に地上の事柄である「風」のことを使用する。風が吹くのは天上の事柄ではない。しかし、風という言葉が「霊」という言葉と同じプニューマであるから、地上の事柄が天上の霊的な事柄と似ているとイエスは言うのである。それでも、地上の事柄は神の働きが地上において働いている事柄であるという認識は霊から生まれた人にしか生じない。霊的事柄は人間の救いに関わる天上の事柄だからである。それゆえに、地上の事柄に働く神の働きが分からないのであれば、天上の事柄はなおさら分からないであろう。

信仰の事柄、霊的な事柄は、天上の事柄である。神が地上の人間に働きかける天上の事柄である。人間の命が神によって生まれたということも天上の事柄である。その人間が罪を犯したがゆえに、御子を地上に派遣したことも天上の事柄である。その御子を救い主と受け入れることも天上の事柄である。しかし、霊から生まれた者、上から生まれた者でなければ、この天上の事柄を理解することはない。

自然的理性では、偶然に世界は生じ、偶然わたしはここにいるとしか認識しない。このような自然的理性の判断では、霊的事柄を把握することはできない。自然的理性で把握可能なのは、現れている事柄のみである。現れていない事柄、見えない事柄、現す主体については何も把握できない。ニコデモも同じように把握できないまま、理解できないままに、イエスとの噛み合わない会話をしているだけである。ニコデモはこのまま自然的理性によってイエスと会話し続けても理解には至らないであろう。それゆえに、ニコデモはいつの間にかいなくなる。

自然的理性はどうして可能になるのかを問うが、イエスは「風は意志するところに吹く」としか答えない。風は霊と同じくプニューマというギリシア語である。「吹く」というギリシア語はプニューマの動詞プノーである。霊も風も同じように吹く、意志するところへ。霊から生まれた者も同じように意志するところに吹くのであって、どのように吹くのかは問題ではないのである。風も霊も吹くのだ、意志するところへ。それだけが真実である。どのように吹くかを考えたところで、自分も同じように吹くことができるわけではない。ただ風は吹く。われわれ霊から生まれた者も意志するところへ吹くだけである。

従って、どのようにしても霊から生まれることはできない。神の意志に従ってのみ、霊から生まれる。生まれることを選ぶことはできない。ただ、われわれは自然的理性の判断を離れて、生まれさせ給うお方に従うだけなのだ。従うと言っても、従おうとすることでもない。ただ従う。それだけである。受け入れることも同じく、だた受け入れるだけである。受け入れようとすることなく受け入れる。従おうとすることなく従う。これが「することになっている」とイエスが言う神の必然に従うことである。そのとき、われわれは信じることを起こされ、信じるように従っている。

我々キリスト者は神がみことばを通して、聖霊の力によって信じることを起こされたのだ。信じることを起こされたことに従っただけなのだ。信仰とは神にすべてを委ねることである。委ねるという出来事において、あなたは信じることを起こされている。信じようとして信じるのではない。信じさせられて信じる。神の憐れみは、あなたを信じる者として造ってくださった。上から生まれて、地上において神の働きに従って生きる。これがキリスト者であり、天上へと導かれている者である。御国に向かって、歩み続ける力は神からキリストを通して聖霊によってきたる。神が起こし給うた信仰の従順のうちに歩み続けよう。祈ります。

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