「権威の現れ」

2018年6月3日(聖霊降臨後第2主日)

マルコによる福音書2章1節~12節

 

「人の子が地の上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが見てしまうために」とイエスは言い、体の麻痺した人に言う。「あなたは立ち上がれ。あなたの床を取り上げよ。そして、あなたの家へと行け」。イエスは権威者が言う命令形で、体の麻痺した人に命じている。この命令の言葉に従って、体の麻痺した人は立ち上がって、床を取り上げて、皆の前で出て行った。イエスは、彼の罪を赦したのであり、罪の赦しを受け取ったがゆえに、彼は立ち上がり、出て行ったのである。これをイエスは皆に見せた。どうしてなのか。あえて見せる必要もなかったのではないか。いや、必要があったのだ。イエスは罪赦す権威を持っている神であることを、ここで皆に見せたということである。

律法学者たちが心の中で考えた通り、神以外には罪赦す権威を持っている人間などいないのだ。それゆえに、イエスは先に神がその人の罪を赦しているのだと宣言した、「子よ、あなたの罪たちは赦されている」と。しかし、この言葉はイエスが赦すとおっしゃったのではない。神が赦しているのだと伝えただけである。それゆえに、現在形の平叙文である。イエスは事実を述べているのである。どうしてイエスは罪赦されている事実を述べることができたのか。罪赦されている事実をイエスはいつ見たのだろうか。体の麻痺している人が屋根から吊り降ろされる姿に、彼らの信仰を見たからである。

イエスは彼らの信仰をこの人の吊り降ろしにおいて見たのである。見たイエスは事実を述べた。それを批判した律法学者たちに向かって、事実を見せるために、その人の癒やしを行った。しかし、イエスが行った癒やしは体に触れることでも、薬を使うことでもない。権威者としての命令のみである。命令において、イエスは癒やし、その結果を律法学者たちに見せた。それが罪赦す権威の現れだった。イエスは簡単なことの方を見せて、難しい方を持っていることを見せたのである。

通常、人間的には体の癒やしの方が難しいと思える。命令するだけならば誰でもできると思うからである。罪の赦しは言葉でしかないと見えるがゆえに、それが事実であると見せることはできない。イエスはそのために命令を与える。命じられた人が命令に従うことによって、イエスが確認した事実が目に見えるようになるからである。これがイエスの癒やしである。

そうであれば、イエスの癒やしは罪赦されていることを外に現させることで体の癒やしが生じるのである。罪の赦しの顕在化がイエスの癒やしなのである。しかし、その際にイエスは神がその人の罪を赦しておられる事実をまず見る。そして、命じる。イエスが罪の赦しの事実を見ること、それが信仰を見たと記されていることなのである。従って、彼らの信仰が見えたのだ、イエスには。しかし、信仰とは見えるものなのだろうか。イエスには見えた。体の麻痺した人を連れてくる人たちと体の麻痺した人そのものとの信仰が見えたのだ。

それは彼らが体の麻痺した人をイエスのもとへ連れてくるだけではなく、イエスのところに行けないという困難をも乗り越えて行くだけの力を与えられていたことに、彼らの信仰を見たのである。信仰がなければ、彼らはここまでしてイエスの前にその人を吊り降ろすことなどできなかったであろうと。さらに、吊り降ろされる人自身の信仰もイエスは見た。それは彼自身が高い屋根の上に上げられて、不安定な吊り降ろしに身を任せたということにおいてである。身を任せること、すべてを委ねることが信仰なのである。体の麻痺した人が友を信じたというだけではなく、彼は神を信じたがゆえに友にすべてを委ねたのである。その彼らの信仰を見たイエスが宣言した、「子よ、あなたの罪たちは赦されている」と。これは複数形の罪なのだから、外に現れた罪の赦し、彼が犯した罪の赦しの事実宣言である。ところが、ここには単数の罪の赦しがない。現れたところだけを赦しても、現す罪本体は消えない。イエスは現れたところにおいて、罪たちの赦しの事実を見たと言える。

ところが、律法学者たちの批判の心を見て、単数の罪の赦しの権威を彼らに見せたのである。それが権威的命令の言葉であった。従って、この命令の言葉に従った地上的事実が見えるならば、イエスがその人の罪の本体を赦したということになる。彼が麻痺し、縛られていたのは、彼自身の罪の赦しを持たなかったからである。罪の本体を赦されるということは、罪が働かなくされることである。罪が縛り付けていた床から解放されることである。彼自身のうちで罪が働き、彼を絶望に陥れていた。お前は罪深いからこのように体が麻痺したのだと。当時、病は罪の結果だと思われていた。そして、多くの病人が罪人として排除されていた。罪が感染すると考えられることもあったからである。病人が使っているものも感染源と考えられ、触れないようにされていた。

ところが、この人の友たちは、彼のために危険を厭わず、イエスの前に吊り降ろすために、屋根をはがすのである。彼が寝ている床を友たちが持ち運んだのだ。友たちは、体の麻痺している人が罪人だとは思っていない。彼の罪が感染するとも思っていない。それゆえに、彼と彼のものに触れることができる。しかもイエスところまで連れてくる意志を起こされている。彼らのその姿を見たイエスは、すでに彼の犯した罪たちは赦されていると事実を宣言したのだ。友たちが赦されていると見ているがゆえに、友たちは彼に触れ、彼の床を担いで、ここまで来たのだから。それが友たちに起こされた信仰なのである。

さらに、友たちにすべてを委ねる体の麻痺した人もイエスによって癒やされると信じている。それは、イエスにすべてを委ねている姿である。それゆえに、彼は癒やされる前に信じているのであり、信じているがゆえに、癒やされることを確認したのである。この信仰は、彼自身の信じる力ではない。彼自身が信じていると思っているような信仰ではない。彼はただイエスに委ねる。イエスの許に連れて行ってくれる友たちにも委ねる。彼は自分の力では、何もできないと知っている。それゆえに、彼は信じている。信じることは、彼の力ではない。彼のうちに、癒やされる願いを起こし、友たちにすべてを委ねて吊り降ろしてもらうまでに信頼する心を起こした神の力である。信仰は神を信じるだけではない。友を信じる。すべてを信じる。すべてを委ねる。

これが彼らの信仰である。彼らのうちに神が起こし給うた信仰である。それは神の権威に従う信仰である。神が命じたものは命じた通りに生じると信じる信仰である。それは思い込みではない。そう考えるという思考ではない。その人の魂がイエスの言葉と一つにされているのである。神の言葉と一つにされているのである。ルターが「キリスト者の自由について」において語っている通り、「信仰は、魂が神のことばと等しくなり、すべての恩恵で充たされ、自由で救われるようにするばかりでなく、新婦が新郎とひとつにされるように、魂をキリストとひとつにする。」のである。神の言葉と魂が一つになることが信仰である。それゆえに、権威的命令の言葉が語られればその通りになるのである。これが今日イエスが見た彼らの信仰である。その信仰は神が罪を赦し、信じる者にして、従わせる信仰である。これは人間の信仰ではない。神によって注入された信仰である。それゆえ、揺れ動くことなく、すべてを耐え、すべてを信じる。如何なるときもそこから引き離されることはない。なぜなら、神が注ぎ込んだ信仰だからである。この信仰こそが、我々キリスト者の信仰である。

キリストは今日も我々にご自身を与えてくださる。キリストの体と血は、我々のうちに入り来たり、我々の魂とキリストが一つとなり、信じる魂が生じるために与えられている。この恵み深い賜物を感謝していただこう。あなたのうちに神が起こされた信仰をキリストは見ておられる。神が働いていることを見ておられる。キリストの権威の言葉があなたの上になる。純粋にみことばをいただき、信仰を生きて行こう。

祈ります。

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