「立ち上がらせる力」

2018年6月10日(聖霊降臨後第3主日)

マルコによる福音書2章13節~17節

 

「あなたは従いなさい、わたしに」とイエスがレビに言う。レビは「立ち上がって、彼に従った」。座っていたレビを立ち上がらせる力はイエスの言葉であった。レビは徴税人だったから、収税所に座っていた。仕事で座っていた。座っていることが仕事だった。その彼が仕事を捨てて、立ち上がった。イエスの言葉には彼を立ち上がらせる力があった。レビはどこから立ち上がったのか。レビは収税所に座りながら、そこから立ち上がれない思いに縛られていたのだ。彼を縛り付けているものを感じ取ったイエスは彼に言った、「あなたは従いなさい、わたしに」と。

イエスがレビに声をかけたのは、座っているレビを「見た」からであると記されている。彼が仕事で仕事場に座っていることは何もおかしいことではない。しかし、イエスは彼を呼ぶ。呼ぶべき存在だとイエスが認めたがゆえに、レビは呼ばれた。イエスはこの呼び出しを何故レビに行ったのか。彼が誰にも認められなかったからである。収税所に座っている存在は、税金を集める仕事をしているのだから、お金しか見る者はいない。お金を納めれば良いのであって、誰も彼に声をかける必要はない。レビという人であろうと他の人であろうとどうでも良いのだ。そこに座っていることすら誰にも認めてもらえなかったであろう。誰かが座っているのだが、徴税人でしかない。金を取り立てる機械のように思われていた。レビは、自分を認めてくれない存在に対して、自分も心を閉ざし、仕事の機械のようにただ座っていた。そのレビにイエスは声をかける。「あなたは従いなさい、わたしに」と。イエスに自分を認めていただいたと感じたレビは立ち上がって、イエスに従った。

レビは自分の家にイエスを招き、多くの徴税人や罪人たちが食事の席に着いていた。レビの食事への招待は自分と同じ境遇にいる人たちに向けられた。レビは彼らにも自分と同じように立ち上がらせる力が働くと信じたのであろう。認められない存在が認められる。目を留められ、呼ばれることで力を与えられる経験をしたレビ。その経験を他の人々にも与えて欲しいとレビは願ったのであろう。自分たち、立ち上がれないほどに病んでいる存在に、立ち上がる力を与えて欲しいとレビはイエスを自分の家に招いた。しかし、それを知ったファリサイ派の律法学者たちはイエスを批判した。徴税人の家に入ること自体が罪の汚れに触れることだとファリサイ派は考えていた。イエスが先生と呼ばれていることも知っていた。律法の先生であれば、汚れた者たちに触れることはないはずだと彼らは考えたのである。ところが、イエスは彼らこそ自分を必要としていると見た。病人として医者を必要としていると見た。

確かに、レビが収税所に座っていること、認められない存在となっていることに、彼の立ち上がれない姿をイエスは見たのだ。その苦悩を、その悲しみを、その嘆きをイエスは見たのだ。イエスはレビを呼ぶことによって、その苦悩から彼を癒やした。そして、レビの招きに応じて、わたしはここに来たのだとイエスは言うのである。それは罪人を呼ぶためであると。

罪人も徴税人も呼ばれることがなかった。排除される存在。認められない存在。いない方が良い存在。病人もいない方が良い存在であった。その彼らを呼ぶために来たとイエスは言う。呼んで、彼らを癒やし、立ち上がらせるために来たということである。イエスは呼ぶことによって、座している人を立ち上がらせる。イエスが呼べば、立ち上がる力をいただける。立ち上がった者が、他者をイエスのところに連れてくる。共に食事の席に着く者として呼ぶ。今まで誰からも呼ばれたことのないレビの周りには呼び、呼ばれる存在が起こされた。イエスに呼ばれたレビが呼ぶ人になった。イエスの最初の一言がこれを起こした。イエスが来たのはこのためである。

義人は誰かを排除するが、罪人は呼ばれて呼ぶ者とされる。呼び出された者がイエスの呼ぶ声を広げる者とされる。義人は自分が呼ばれれば、当然だと思い上がる。わたしは、呼ばれて当然な人間だから呼ばれたのだと思う。ところが、呼ばれて当然だとは思えない罪人や徴税人たちが呼ばれる。不自然にも呼ばれる。彼らは何故呼ばれたのかは分からない。しかし、呼ばれたことを喜ぶ。義人は呼ばれたことを喜びもしなければ、呼ばれても自分が選ぶと思い上がる。こうして自分を離さない。罪人たちは自分を持たず、自分を捨てさせられている。お前は何者でもないと蔑まれている。それゆえに、呼ばれたことを不思議に思いながらも、喜んでイエスに従う。

満たされている者は受け取らず、欠乏を抱えている者が受け取る。必要であると思っている存在は、欠けている存在である。欠けていなければ必要を感じない。欠けていない義人は自分だけで十分なのだ。神さえも必要としない。何も欠けがないと思い上がっている存在は自分だけで十分に生きていける。誰もが自分を認めてくれるというだけではなく、自分が誰かを認める立場にあると思ってもいる。そのような義人は欠けていないのだから、何も必要としていない。求めることはない。そして、満たされることはない、神によって。

イエスは、レビの欠乏を見た。満たされることを求める欠けを見た。闇の中で座しているしかない自分を誰か救って欲しいという求めを見た。この欠けから生まれる求めがなければ、神に祈ることはない。イエスの呼ぶ声を聞くこともない。我々人間は、呼ばれることを求めている。呼んでくださるお方を求めている。罪人の自覚は、救いを求めている。欠けがなければ祈ることはない。神の前にひれ伏すこともない。そして、救われることもない。欠けていることこそ呼ばれていること。欠乏こそ神の呼び声を聞く賜物。誰も自分で欠乏を獲得することはできないのだから。

欠乏は神の賜物として、与えられた人を神に結びつけ、神を求めさせる。欠乏に神の力が満たされる。欠乏にこそ神の力が働く。欠けを知る者こそ呼ばれている者。欠けを知らない義人が決して受け取ることがない恵みを罪人は受け取る。自らが義ではないと認め、義となることさえできないと認める者が、神の義を受け取る。それが信仰義認である。信仰義認はあくまで呼び給うお方が主体である。信仰を起こして下さる神が主体である。求めさせる神が主体である。イエスがレビを見て、レビを呼んだように、立ち上がる力はイエスから来たる。イエスの言葉から来たる。イエスこそ、我々罪人を立ち上がらせる力である。「あなたは従いなさい、わたしに」と呼び給うイエスに従う信仰を起こされた者がキリスト者である。あなたの欠乏はイエスの呼び声を受け入れる器となる。あなたが空っぽになっていなければ、イエスの呼び声を受け入れることはできない。

使徒パウロも自らの病を、取り除くべきトゲと思い、主に祈った。ところが、主はパウロに言った。「わたしの恵みはあなたに十分」と。トゲを取り除き、完全になることを求めたのに、そのままで良いのだと言われたのである。弱いままで良いのだ。欠けているままで十分だと主はおっしゃった。それゆえ、パウロは「むしろわたしの弱さにおいて誇ろう」と言う。「キリストの可能とする力がわたしの上にテントを張るために」とも言う。キリストはわたしの弱さを覆う力。わたしの弱さの上にキリストが来てくださる。レビの欠け、弱さ、情けなさをイエスは認めてくださった。そして、ご自身の言葉によって力を与えてくださった。立ち上がらせる力で覆ってくださった。我々もパウロと共に、弱さにおいて誇ろう、救い主なるイエスを。

主は、我々の弱さをご存知である。ご自身の体と血を与え給うほどにご存知である。あなたの欠け、弱さがキリストを受け取る器となる。あなたの欠けを包み給うキリストがあなたに与えられる。あなたの弱さがキリストを迎え入れる。キリストがあなたのうちに生き給う恵みは、弱さを通して入り来たる。何もない、欠け多き、弱きあなたにキリストは来てくださる。あなたを呼び、満たしてくださる、ご自身のいのちを、ご自身の恵みを、ご自身の立ち上がらせる力を。

祈ります。

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