「時来たりなば」

2018年6月17日(聖霊降臨後第4主日)

マルコによる福音書2章18節~22節

 

「彼らと共に、花婿を彼らが持っている限り、彼らは可能とされていない、断食することを」とイエスは言う。花婿を持っている結婚式の招待客たちは断食などしない。花婿を喜ぶために共に食卓に着くからである。そのようなときに断食する者などいないとイエスは言う。それは「可能とされていない」という受動態の言葉で表されている。彼らは神によって「可能とされる」ときがあり「可能とされない」ときがあるということである。それを自分の力で変えることはできないのである。

イエスの弟子たちを批判し、イエスを批判している者たちは、自分の力で断食しているとイエスは反論しているのである。断食は神によって可能とされて行うものであると。律法の一つひとつの言葉は神が語り給うた神の意志である。我々人間はその意志に従うのであって、自分の意志と力で行うのではない。神の言葉がわたしのうちに働いて、わたしを促し、わたしを可能としてくださる。可能とされていないのは、神が可能としておられないということだとイエスは言うのだ。それなのに、自分の力で可能となると考える者は神の力を知らないのである。神の意志に従っていないのである。従って、神の言葉を聞いていないのであり、神の言葉がその人を造るように働かないような妨げを持っているということである。

弟子たちが断食しないのは、彼らが断食しないのではなく、神が可能としていないからだとイエスは反論しているが、それは妨げがあるということであろうか。イエスが花婿として彼らを婚宴の席に招待しているから彼らは妨げられているということであろうか。いや、花婿の宴席は妨げではない。むしろ、自分の力で断食しようとすることが神の力の働きを妨げるのである。弟子たちはイエスが共におられることで喜びの婚宴を楽しんでいる。それは彼らから取り去られてはならないし、彼らが断食を可能とされていないということを受け入れるようにとイエスは批判者たちに求めるのである。

続いてイエスは言う。「しかし、日々がやって来るであろう」と。その日々は「彼らから、花婿が取り去られるとき」である。「そのとき、彼らは断食するであろう、その日々のうちに」とイエスは言う。この断食のときは彼らが招き寄せたときではない。彼らが望まないにも関わらず、花婿が取り去られるときが来るのである。彼らはその時を来たらせるわけではない。むしろ、彼らの反対者たちが来たらせる。彼らはそれを受け入れるしかない。その悲しみのうちに彼らは断食しようとするであろう。悲しみを自らの罪の結果として受け入れ、断食し、神に祈るであろう。これが神によって可能とされるときであり、神こそが断食することを可能とするお方である。彼らの批判者たちは、神によって可能とされているのではない。神によって与えられた悲しみ、苦しみを罪の結果として受け止めているわけではない。ただ断食することが律法を守ることだと考えているだけである。律法を守っている自分を誇るために断食するとしたら、その断食は何をもたらすのだろうか。自負をもたらすのみ。断食とは本来悔い改めの行為である。自負に至る悔い改めはない。悔い改めは自己否定であり、罪を悔いている心から現れる行為である。イエスの批判者たちは、悔いている心からの断食を語っているのではない。行うことによって自らが律法を忠実に守っていると自負する断食を語っている。彼らがイエスと弟子たちを批判するのは自負の心からである。

自負の心は彼らから生まれた心である。悔い改めの心は神の言葉から生まれる。神の言葉を聞いた者の心は罪を糾弾され、自己のうちに何もないことを認めざるを得ない。何もない者を満たしてくださるお方に祈るように導かれる。そのとき、彼らは断食するであろう。悔い改めて、断食するであろう。その時は神が来たらせる。神に従うとはそのような事態である。喜びを与えられているときには喜び、悲しみを与えられているときには悲しみ祈り、罪を知らされるならば悔い改める。神の言葉を聞いているならばそのように導かれる。神の言葉に従うとはこのような事態なのである。

自分が神に従っていることを確認しようとするならば、それは従うことではない。従っているならば確認は必要ない。ただ従えば良い。従っていない者が確認する。いや、確認したくなる。確認したくなる心はその人の心である。悪しき心である。確認など必要ない。純粋に従えば良いのだから。我々キリスト者が自らの信仰を確認しようとするとき、自ら発したものしか確認できない。与えられた信仰であるならば確認などできないのだ。自ら発した信仰は純粋ではない。不純にも自分のために信じているからである。自分が神に認められるために信じているような信仰など信仰ではない。それは自己満足であり、自負を膨らませるだけの悪である。そのような信仰を神が与えたと言うならば、それこそ冒涜である。神が与えた信仰であれば確認など必要ない。信仰は、すべてのことに神の意志を認めるのだから、すべてを引き受ける。すべてを耐える。すべてを貫いて働き給う神の意志に信頼する。それゆえに、動揺することなく、神の言に立つ。たとえ、悪が働きかけようとも、神の言葉の上に立って動かない。そのような信仰は我々からは生まれてこない。神が与えてくださらない限り我々は信じることなどできないのだ。この無力な、悪しか行わない自分を知ることこそ、悔い改めの心が起こされたときである。

その時は神が来たらせるのだとイエスは言う。その時は来たるであろうと。そのときには、弟子たちは断食するであろうと。それは革袋とワインの関係でもあるとイエスは言う。新しいワインには新しい革袋を用意し、その中で十分に発酵するようにするものである。そのワインが発酵するには共に時を過ごす革袋が必要なのである。新しい革袋は弟子たちが十分に発酵するまで共に過ごしてくださるイエスである。彼らが裏切り、イエスを見捨てても、彼らの発酵を信じて、すべてを引き受けてくださる。イエスは弟子たちの革袋として生きてくださる。神が時を来たらせるまで、彼らをご自身のうちに守り給う。彼らはイエスに守られて、神が可能とし給うときまでイエスと共に過ごす。イエスが取り去られるとき、彼らは断食が可能とされているように、美味しいワインとなっているであろう。共に時を過ごした布でなければ、継ぎ当てにはならないのと同じように、イエスは弟子たちと共に神のときを過ごし給うお方。新しい革袋であるイエスは、弟子たちの新しいワインである信仰を発酵させるために神が与えてくださったお方。

神が時を来たらせ給うとき、我々は自分の命を喜び生きるであろう。神が造り給うたワインとして人を喜び楽しませる働きをするであろう。イエスという革袋は我々一人ひとりを神の時へと守り給う革袋。純粋なワインとして発酵させ給う革袋。純粋な信仰を起こし給う神の革袋イエスは十字架の死に至るまで神に忠実に生きてくださった。このお方がおられることで、我々は我々の上に来たる神の時を楽しむことができる。如何なる時も、神が来たらせ、神が喜ばせ給う時である。それぞれに与えられた時を享受して生きて行くようにとイエスによって守られているのだ。あなたの革袋はイエス。神が遣わし給うた救い主。あなたを包み、あなたの上に下される神の怒りをご自身の上に引き受け、あなたを守り給う救い主。あなたが十分に発酵するまで、イエスはあなたを守ってくださる。

このお方の心が満たされた主の食卓は、あなたに発酵の種を与えてくださる。イエスの体と血はあなたのうちでキリストご自身が形作られるために与えられる種である。喜びいただき、感謝して十分に満たされよう、主の力に。キリストはあなたを形作ってくださる、神に純粋に従う者として。時来たりなば、あなたは十分に備えられたキリスト者として生きることであろう。他者を喜ばせるワインとして神があなたを用い給うであろう。そのときまで、神の言を聞き、神の意志を信頼して、イエスのうちに生きて行こう。時来たりなば、あなたは新しいワインである一人のキリストとして生きるのだから。

祈ります。

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