「欠乏の必要」

2018年6月24日(聖霊降臨後第5主日)

マルコによる福音書2章23節~28節

 

「ダビデは何をしたか、彼が欠乏を持っていて、彼が空腹であって、彼と共にいた者たちも空腹であったとき」とイエスはダビデの故事を引き合いに出して、律法が欠乏の満たしを妨げることはないと語っている。なぜなら、律法に代表される神の意志は人間の命を守ることであって、人間の欠乏を欠乏のまま放置することではないからである。ここで、イエスと弟子たちを批判しているファリサイ派の人たちは欠乏を知らないということである。欠乏を知っていたならば、弟子たちのすることを批判しなかったであろうとイエスはおっしゃっているのだ。他者を思いやるためには欠乏が必要である。神の律法を正しく用いるためには、欠乏が必要なのである。

出エジプトしたイスラエルに律法が与えられたのは、エジプトでの奴隷状態の欠乏や荒野の40年の欠乏を忘れないためであった。約束の地であるカナンの地に入るにあたって、どのように生きるべきかを指示したのが十戒に代表される神の律法であるが、安息日律法は奴隷たちの休息のためでもあった。「安息日律法は人間のために生じた」とイエスがおっしゃるのは、神の律法は、神を愛することと隣人を自分自身のように愛するために生じたということである。

それにしても、ダビデの故事は緊急の際には律法の規定に縛られることはないということを語っているように思えるのに、イエスの弟子たちは緊急のときにいたのだろうか。単に空腹で、麦畑の麦の穂を摘んで食べたのではないのか。それは緊急ではないと反論されるのではないか。いや、彼らはいつも空腹であった。ろくに食べるものもなく、イエスと共に旅をした。イエスは、ダビデの放浪生活における故事にご自身の放浪の生活を投影したのであろう。ダビデも今にも死にそうだったというわけではない。ただ空腹だったのだ。そのダビデの行為は、祭司以外食べることを禁じられていた供えのパンを祭司からもらったことであった。祭司も、律法の規定など無視して、ダビデたちの空腹のためにパンを差し出した。一食食べなかったからと言って、すぐに死ぬわけではないであろう。しかし、祭司はダビデ一行にパンを差し出した。それは、律法が他者への憐れみを禁じてはいないということである。祭司自身も欠乏の経験があって、ダビデたちにパンを差し出したのである。他者の欠乏を知ることは、自らの欠乏を通してである。律法を正しく用いるには、欠乏が必要なのである。ファリサイ派の人たちは、欠乏を知らなかった。それゆえに、欠乏の不安を理解することなく、働いてはならないという律法の規定を拡張し、麦の穂を摘んで食べるという些細なことにも批判の矛先を向けるのである。

些細なことを些細なこととしないのは大事なことである。マルティン・ルターも贖宥状を些細なこととしないで、その本質的悪を暴いた。それによって、当時の教会の教えが聖書に基づいていないということを明らかにしたのだ。ルターは、民衆の救いのために些細なことの本質を明らかにして、民衆を誤謬から守った。では、ファリサイ派の人たちが批判するのは何のためなのであろうか。他者を救うためであろうか。いや、他者を裁くためである。警察行為のように監視して、違反者を裁くためである。しかし、律法は人間のために生じたとイエスは反論する。人間を裁くために生じたのではない。人間を守るために、救うために生じたのだ。律法は、欠けている人間が律法によって欠けを満たされ、正しく生きるために生じたのである。それは神の憐れみなのである。この憐れみを知るのは、欠乏を知る者である。

律法に従って正しく生きるということは、神との関係を正しくされ、与えられた律法を正しく使うということである。この正しさは神の正しさ、いわゆる神の義である。神の義は、神が正しいということ以上に、神が正しくない人間の欠けを満たすために、ご自身の義を与えるということである。その欠けを神が満たすためには、欠けを知る必要がある。欠乏が必要なのである。欠乏を知らない人間は、満たしてくださるお方を求めることはない。そして、他者を裁く自分を正しいと考えることになる。ファリサイ派の人たちのように、自分の正しさを主張するために、他者を裁くということに陥る。そのとき、裁く者は正しくない。神の義を願い求めてはいないからである。

安息日は人間のために生じた。生じさせたのは神である。神は人間のために安息日を設定してくださった。人間が仕事から解放され、休みを与えられ、命を回復するために、神は安息日を生じさせたのである。この神の意志に従って、安息日を用いてこそ、安息日が神の意志を実現するのである。神は人間を裁くために安息日を生じさせたのではないのだから。

さらに、イエスは言う。「人の子は、安息日にもまた主である」と。「人の子」とは人間を表す言い方であるが、先に「人間のために」とイエスは言っていたのだから、ここであえて「人の子」と言って、メシア救い主を表している。救い主は、安息日にも主である。安息日を設定した神に従って、人の子は安息日の主として安息日を用いる。救い主は人間のために安息日を用いるのである。イエスが弟子たちのために用いている安息日は、メシア救い主としての用い方に従っているということである。

イエスが生じさせた安息日ではないが、生じさせた神に従って用いる権威を救い主は持っているということである。しかし、救い主でなくとも、ダビデにパンを差し出した祭司は正しく用いたのではないのか。そうである。正しく用いるためには、救い主が用いる視点を持っている必要があるということである。それは欠乏を知ることによって与えられる視点である。満たされている者は欠乏を知らないがゆえに、正しく用いることができない。また、自分が満たすことができると思い込むがゆえに、正しく用いることができない。祭司も欠乏を持っている者として祭司に任じられているのである。ヘブライ人への手紙5章に記されている通り、「大祭司は弱さを着ているので、無知な人たちや迷っている人たちを思いやることが可能とされている」のである。大祭司は自分自身のためにも祭司の働きを行う。キリストも同じように、肉において生きていたときに、ご自身を救う力を持つ方に祈ったと語られている通りである。祭司の務めは、自分の弱さ、欠乏を知り、他者の弱さ、欠乏を思いやり、共に神に祈る務めである。そのような祭司の務めについて、ダビデの故事を引きながら、イエスは欠乏の必要を語っておられると言えるであろう。

空腹を経験したことのない満たされた存在には、欠乏に満たされた存在の不安を理解することはできない。理解できず、努力が足りないと批判し、些細なことに批判の矛先を向ける。自らが批判する批判によって、自分を正しい者として立てる。ファリサイ派の人たちが弟子たちの些細な行為を批判するのは、そのような正しさによってである。弟子たちの行為は決して律法によって許されていないものではない。申命記23章26節にあるとおり、空腹のときに他者の麦畑の麦の穂を摘んで食べることは律法でも許されているのだ。ただし、鎌を入れてはならない。律法が許容しているにも関わらず、ファリサイ派が批判するのは、安息日に仕事をしてはならないという規定に抵触する行為として、麦の穂を揉む行為を見たからである。申命記の記述においてはこれを仕事とは考えていない。盗みとも規定していない。空腹を満たすために、欠乏を持っているならば揉んで食べて良いのだと律法は語っているのだ。これは欠乏の不安を知る者にしか理解できない規定であろう。そして、律法を正しく用いるのは、欠乏を知る大祭司、欠乏を知る救い主、キリスト以外にいないのである。

弟子たちを守り給うたキリストは、我々キリスト者の欠乏をご存知のお方である。我々は、このお方に祈り求める。罪深き、欠け多き器を満たしてくださるお方に信頼して、進み行こう。あなたの欠乏を思いやり、満たしてくださるキリストがあなたの主なのだから。

祈ります。

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