「聖なる霊」

2018年7月8日(聖霊降臨後第7主日)

マルコによる福音書3章20節~30節

 

「聖なる霊を冒涜する者は永遠に赦しを持たないだけではなく、永遠の罪責を逃れられない」とイエスは言う。聖なる霊は赦しに関わっている霊であり、聖なる霊を持たない者は赦しを受け取ることができないのである。聖なる霊を受けている者は、神の赦しを受動的に受け取るのであるが、聖なる霊を冒涜する者は受け取ることはない。なぜなら、彼らは自らが獲得する方向で生きているからである。

自分たちの力によって神の赦しを獲得すると考えている限り、神の赦しを受け取ることはできない。与えるお方に従って受け取るのであって、与えるお方がいなくとも獲得できると考える人は神の赦しを受けることはないからである。これが聖霊を冒涜する者の在り方であるとイエスは言うのだ。

しかし、律法学者たちはイエスが悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだとイエスを批判しただけであって、神の赦しについては何も言っていない。それなのに、彼らは聖霊を冒涜する者だとイエスは言うのだ。どうしてなのであろうか。

聖霊とは聖なる霊であり、聖そのものである神の霊を指している。聖なる神の霊は神の意志を伝達し、神の意志に従って生きることを可能にする。イエスが聖なる神の霊によって悪霊を追い出しているのは、悪霊に支配され、神の意志に従うことができなくされている存在を神の意志に従う存在に変えるためである。その行為自体は、癒やしとして現れている。それゆえに、癒やされた存在が神に従って生きるようにされているという根源的な癒やしなのだが、端から見れば単なる癒やしである。さらに、イエスを批判する者たちは、自分たちが排除していた罪人や病人たちがイエスを慕うようになったがために、イエスを憎んでいるのである。イエスへの憎しみから彼らはこう考えるようになってしまった。「あいつは悪霊の頭の力で悪霊を追い出して、悪霊の頭であるあいつのところに皆を引っ張って行っている」と。実際には、彼らが排除していた罪人や病人たちがイエスに従っていたのである。だからこそ、そう考えるようになったのであろう。罪人や病人たちは悪霊に取り憑かれていると考えられていた。そのような者たちがイエスに従うということは、イエスが悪霊の頭であるからだと。イエスに癒やされた者たちは身体的にも霊的にも健やかになった。悪霊に縛られていたときとは違うように生きることが可能となった。その姿は自分たちとは違うように見える。この世の力や慣習に縛られている者たちは、罪人や病人たちの苦しみを理解することなく、彼らが解放されたことを喜ぶこともない。罪人たちや病人たちの変えられた生き方が自分たちを批判していると思うからである。

イエスを批判する律法学者たちの方に彼らが行かないのは、彼らが悪霊から解放されたからである。もはや彼らは悪霊の方には行かない。彼らは悪霊を持っている存在を知っているからだと言える。従って、律法学者たちが悪霊のように罪人や病人たちを排除していたのである。一般民衆も律法学者たちが立てた慣習に従って、自分たちは罪人ではないと安心していた。そのような律法学者たちの支配から解放された罪人や病人たちが、彼らを縛っていたところにはもはや戻らないのは当然である。彼らを癒やし、律法学者たちの支配から解放してくれたイエスに従うのは当然である。それゆえに、罪人や病人たちはイエスの律法の下に生きていると言える。では、イエスの律法の下には聖なる神の霊はどのように働いているのであろうか。

聖なる神の霊は受動的に受け取らせる霊である。罪人や病人たちは、自分たちの力では罪人状態から抜け出すことはできなかった。病人たちも自分たちの力で病気から癒やされることはなかった。彼らはイエスによって癒やされたのである。律法学者たちの考え方では、罪人も病人も罪を犯したのだから、罪から解放されるために罪の償いが終わらなければ神に受け入れられることはないと思われていた。神の懲らしめを十分に受けなければならないと考えられていた。神の懲らしめを人間が取り除くことは罪だと考えられていた。それでは、償いの力さえもない者たちはどうにもしようがない状態に置かれる。律法学者たちは、彼らを解放する力の下に連れて行くことなく、彼らに触れないように生きているだけで、彼らの救いのためには何もしなかった。一方、イエスは見捨てられた者たちを解放する力の下に連れて行った。聖なる神の霊によって解放されるようにしてくださった。それを律法学者たちは悪霊の仕業だと言うのである。彼らの立場からすればそうなのであろう。自分たちに同意しないからである。しかし、聖なる神の霊の方から見れば、律法学者やその考え方の下に慣習的に生きている者たちこそ、聖なる霊に同意しない存在である。いや、聖なる霊に反対する存在である。それゆえに、イエスは言うのである。「聖なる霊を冒涜する者は永遠に赦しを持たないだけではなく、永遠の罪責を逃れられない」と。

聖なる霊の冒涜は、赦しを持たないことだと言うが、赦しは神が与えるものである。従って、神が与える赦しを受け取らないということである。どうして受け取らないのかと言えば、彼らは自分たちで赦しを獲得すると考えているからである。それゆえに、罪人や病人たちが赦しを獲得するように生きなければならないと考えていた。だからこそ、罪人たちはどうすることもできず、病人たちも放置されたままであった。

人間は罪の赦しを獲得することはできない。与え給う神に従って、ただ受け取るだけである。受け取るときには、自分の力は放棄しなければならない。自分の力に頼っている限り、受け取ることはできない。与え給う神は、我々が純粋に受け取ることを願っておられる。それゆえに、自分の力を捨てなければならない。我々が自分を捨てるということはそういうことである。自分には自分を救う力はないということを受け入れることが自分を捨てることである。あくまで、自分の力で救われようとする者は、自分を捨てていない。それゆえに、自分で自分を救おうとして、自分を破壊するのである。それこそ、サタンの内輪もめと同じことである。

我々は自分のうちに住む罪をどうすることもできないのだ。ただ、イエスだけが、神だけがその罪を押さえることができるお方である。それゆえに、我々はイエスに祈るのであり、イエスを通して神に救いを求めるのである。神に救いを祈り求めない者は永遠に残る罪責を自分で償っていくしかない。果てしない罪責地獄に陥ってしまう。そして永遠に救われない状態を自分で生きることになるのである。それゆえに、神はキリストをお遣わしになったのだ。我々人間の罪責を贖い、我々のうちに住む罪を働かなくするために、キリストをこの世のただ中に送り給うた。このお方を理解することなく、十字架の死に引き渡したのは我々である。我々は律法学者や一般民衆とかつて同じ人間であった。自分は罪人や病人ではないと思っていた我々がキリストを十字架に架けたのである。その十字架を神はご自身の救いの御業として立ててくださった。

悪霊の頭で追い出していると批判した律法学者や一般民衆が十字架に架けたイエスを、神はご自身の赦しの御業のために生かしてくださった。罪人や病人たちは、イエスに癒やされ、イエスに従い、イエスの言葉を広める役割を担う者とされた。律法学者や一般民衆が罪人として排除した者たちが救いを伝える器とされた。これもキリストの十字架と同じである。

自分の力ではどうにも仕様がない存在をキリストは受け入れ、救いを与え給う。与えられる救いを受け取る聖なる神の霊を与えて、受け取るようにしてくださる。これが神の救いの御業である。神に向かって自らを開く者が救われる。神に向かって、罪深き自分自身を開く者が救いを受け入れる。神に向かって自らの罪を告白する者が赦される。これが神がキリストを通して設定してくださった救いの道である。この道から外れることなく、キリストに従って進み行こう。永遠なる神の救いの御国へと、聖なる霊が導いてくださる道を歩み行こう。

祈ります。

Comments are closed.