「神の種」

2018年7月15日(聖霊降臨後第8主日)

マルコによる福音書4章26節~34節

 

「人間が地の上に種を投げるように、そのようである、神の国は」とイエスは言う。神の国は地の上に人間が種を投げることのようだと言う。投げられた種が成長する姿を人間は知ることなく、地が自ずから実をもたらすようになっている。そのように、神の国は人間の関与しない成長を成長すると言う。神の国が人間の関与しないものであれば、神が神の国の種を成長させるということであろうか。確かに、神の国は人間が何もなし得ないとしても自ずから成長するのである。いや、むしろ人間が関与できないからこそ、成長するのである。神が種を蒔き、蒔かれた地が自ずから実をもたらすように成長させる。その地とはどこにあるのか。人間の関与しない地。人間の手の届かない地。人間が妨げることができない地こそ、神の地であり、神の種をはぐくむのである。しかも、からし種が空の鳥の宿りとなるように、神の国そのもののために神の国があるのではない。他の存在に対して自らの陰を提供するということが神の国なのである。その陰に包み込むことが神の国の在り方である。

そうであれば、神の国は我々人間の見えないところで、知らないうちに我々を包み込んで、成長しているのであろうか。我々が妨げていても成長しているのであろうか。我々が知らず、見ることもできないとすれば、妨げも通じないであろう。妨げられることなく、自ずから成長していく世界が神の国である。

しかし、神の国は成長している間は誰も気にかけず、最終的に見えるようになったとき、空の鳥が巣をかけるように、終わりにならなければ分からないということである。そうであれば、終わりに至ったとき、誰でも入ることができるということであろうか。イエスのたとえはそこまでは何も語っていない。小さく、誰も気にも留めない種が大きくなってようやく空の鳥に見えるようになるというだけである。巣をかける必要がある空の鳥だけがからし種の木に来たるであろう。だとすれば、巣をかける必要を持たないならば、気づかないだけでなく、必要ともしないということになる。神の国とはそのようなものだとイエスは言うのだ。神の国は、神がこの世界に投げた種のように、自ずと実をもたらし、からし種のように成長し、見えなくとも必ず終わりに明らかになるものなのである。

そのような神の種を宿している世界に生きている人間が神の国に入ろうとしても入ることはできない。最後の日に、ようやく明らかになるとしても、そのとき必要としている者でなければ見出すこともないからである。神の国に入るように備えることもできない。神の国に入る資格など人間が持つことはない。ただ神がはぐくみ、終わりの日に目覚めさせる者だけが入るであろう。それが誰なのかは人間には分からない。

人間の力では、神の国に入ることができないとすれば、備えることもできず、資格も持つことができないとすれば、どうしてイエスは神の国を宣教したのであろうか。当時の律法学者やファリサイ派が人間が備えて、資格を持つことができると教えていたからである。自分たちは入ることができるが、お前たちは駄目なのだと、罪人や病人たちをそこから排除していたからである。神の国を宣教することによって、イエスは神の国をすべての者に福音として開いた。「神の国が近づいている」、「神の国が近くにある」とイエスは宣教した。神の国が主体として、あなたがたに近づき、近くにあるのだと宣教した。人間が近づくのではない。神の国そのものが近づくのであるとイエスは宣教したのだ。それゆえに、排除されていた者にも神の国は開かれた。

人間の側に備える力もないのだから、誰でも入ることができる。しかし、備えることができると思っていた人たちは入ることができない、という逆転した福音をイエスは宣教したのである。この福音こそ、神が地に投げた種なのである。そして、イエスの宣教は神の種を地に投げることなのである。受ける者が受け、受けない者が受けない神の種は、受けた人のうちで自ずから成長する。成長して、他者のために自らを提供するようになるとき、その人は神の国を生きているのだ。それゆえに、幼子たちのように素直に純粋に受け入れる者が神の国に入るともイエスは語っているのだ。

神の種は、我々のうちで自ずから成長するのだとすれば、我々自身が成長させるわけではない。むしろ、神の種が自ずから成長することを受け入れているだけで良いのだ。我々の力で神の種を成長させようとすることはできないのだ。神の種そのものに力が秘められているのだから、その邪魔をしないことしか我々にはできない。いや、我々人間にできることと言えば、邪魔でしかないということである。邪魔しかできないということが我々が罪人であるということである。それでもなお、その罪人が邪魔をすることしかしていないということを弁え、神の種を受け入れるならば、自ずから成長していく。そして、我々も他者のために実をもたらし、他者のために陰を提供するようになるのである。

このようになる者として、我々を招いてくださったのはイエスである。イエス・キリストの言葉である。イエスの言葉によって自らの罪深さを知るようにされた存在は、イエスが蒔いてくださった神の種を受け入れた者である。神がその人のうちで働く者である。神が選び、召し出してくださった者がキリスト者である。キリストの十字架に自らの罪を見る者である。キリストの十字架も、神の国のように、受け入れる者だけが受け入れる。資格をもって受け入れるわけではない。資格も何も必要ない。ただ、自らの罪を自覚させ給う十字架の働きを素直に受け入れる者だけが受け入れるのである。

イエスを排除して、十字架に架けた者が排除され、イエスと共に排除されていた者が受け入れられる。排除と受け入れの逆転が十字架において生じている。この逆転は逆転ではない。むしろ、人間の逆転した思考を神が正した出来事なのである。イエスのたとえも同じである。それゆえに、イエスのたとえはイエスの十字架と同じ機能を持っている。同じ機能ゆえに、イエスの十字架はイエスの宣教と同じく種まきの機能なのである。十字架は神の種を蒔いている。すべての人に蒔いている。すべての人がその種を受け入れるならば救われる。受け入れないならば救われない。それだけである。イエスのたとえも、蒔かれた種が人間に関わりなく成長するというだけ。小さなからし種が大きくなるというだけ。それだけが真実である。この真実を人間がとやかく言うことはできない。それはそのようであるだけなのだから。それゆえに、受け入れることだけが人間に求められていることである。

神の国は終わりの日に明らかになる。それまでの日々をどのように生きるのか。神の国は自ずから近づき、自ずから実をもたらし、自ずから明らかになる。そうであれば、我々にはただ神の国が今成長していると信じることだけが求められる。ただ信仰だけが神の国を受け入れる。ただ信仰だけが神の種を受け入れる。ただ信仰だけが我々を神の国に生きるように導く。自分で確認することができない神の国の中で生きるということは、今神の国の中で生きていると信じることだけである。そのように生きる者が終わりの日に神の国に入っていることであろう。神の国は信じる国。神の種も信じる種。神の御業も信じる御業。イエスの十字架は信仰を求める。信仰もまた、神の国、神の種のように神から与えられ、自ずと成長し、我々の命を神のものとする神の働きである。

我々は、神のはぐくみに身を委ねて、信頼しているだけで良いのだ。神が善いようにしてくださると信じていれば良いのだ。神の善き業がわたしのうちで行われていると信じていれば良いのだ。信じようとしても信じることができないのだから、信仰そのものであるお方が我々を信じる者にしてくださる。信仰という神の種を我々のうちに種蒔いてくださっている。すべてを在らしめ給うお方の種があなたのうちにも蒔かれているのだから、心配する必要はない。あなたは良き実をもたらす者となる。

祈ります。

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