「沈静の信仰」

2018年7月22日(聖霊降臨後第9主日)

マルコによる福音書4章35節~41節

 

「わたしたちが滅びていることがあなたには気がかりではないのか」と弟子たちは、船尾で寝ていたイエスに言う。弟子たちは自分たちが滅びていると言う。その弟子たちに向かってイエスは言う。「何故、臆病な者たちなのか、あなたがたは」と。そして、「まだ信仰を持っていないのか」と言う。信仰を持っていても、滅びることは恐ろしいと弟子たちは思ったであろう。臆病になるのは仕方ないではないかとイエスを批判したい気持ちにもなったであろう。自分たちは、イエスのように寝ていることなどできないのだと。

我々人間は慌てふためく。信仰を持っていると思っている人でも、自分の死に際しては慌てふためく。舟が沈みそうになっている弟子たちは当然である。弟子たちは信仰を持っていないとイエスに言われ、臆病者だと言われている。信仰を持っていると思っていても、臆病者になるのが人間なのだ。イエスのように泰然自若としていることはできない。

確かに、イエスのように静かに神に信頼していることが真実の信仰であろう。イエスだから、そのようにしていることができる。自分たちはどうしても不安になり、臆病になる。それでも信仰は持っていると思っていた。しかし、イエスは彼らが信仰を持っていないと言うのだ。信仰を持っていれば、死なないということなのか。信仰を持っていれば、死も恐れないということなのか。信仰を持っていれば、何事も害することはないということなのか。イエスが一緒に乗っている舟が沈みそうになって、自分たちも死にそうになっているのだから、信仰を持っていてもどうにもならないではないかと弟子たちは思ったであろう。それゆえに、寝ているイエスを起こした。「わたしたちが滅びていることを気にもかけないのか」と。

しかし、幸いな弟子たちには呼び求めるお方がそばにいた。寝ていてもそばにいた。弟子たちは、イエスを起こすことができた。イエスに不満を述べることもできた。たとえ、イエスに「まだ信仰を持っていないのか」と言われても、「何故臆病者なのか」と言われても、イエスがおられる。それが弟子たちの幸いである。イエスをたたき起こしてでも、「助けてくれ」と言える弟子たち。彼らが信仰を持っていなくとも、泰然自若のイエスがおられる。「このお方はいったい誰なのだ」と思うほどのイエスがおられる。弟子たちはイエスを起こすことができる。それが我々人間の祈りなのだ。そして、我々人間の信仰なのだ。

イエスの信仰は静かに神に信頼している沈静の信仰である。弟子たちが持っていると思っている信仰は、死にそうになれば慌てふためくような信仰である。何の力にもならない信仰である。彼らを助けることもできない信仰である。しかし、イエスは信仰そのもの。静かに神に信頼しておられる。このお方がそばにいてくださるということが、弟子たちの救いなのだ。弟子たちが信仰を持たなくとも、いや持つことなどできないのだが、イエスがそばにいてくださる。イエスを起こすことができる祈りを与えられている。イエスこそが弟子たちの信仰なのである。そして、我々キリスト者の信仰なのである。

我々の信仰は直接的に神を信頼するほどの強い信仰ではないであろう。イエスのように徹底的に神に信頼しているような信仰ではないであろう。しかし、そのイエスがそばにいて、いつでも弟子たちの求めに応じてくださる。これが我々の信仰であり、我々の救いであり、我々の幸いなのだ。このお方が我々の信仰として生きておられる。これこそが我々の救いであり、幸いなのだ。

鎮まっていることができない我々人間のために、イエスはそばにいてくださる。嵐の中でも、いつでも起こすことができるようにと、そばにいてくださる。慌てふためくときにも、いつでもイエスを起こして良いのだ。そのために、イエスは弟子たちと共にいてくださるのだから。我々とも共にいてくださるのだ。まだ、信仰を持つことができないでいる我々のそばにイエスはいてくださる。いつでも、イエスに祈ることができる。いつ如何なるときであろうとも、イエスを起こすことができる。嵐の舟の中でイエスが弟子たちに与えた信仰がこれなのだ。

我々人間はいつ如何なるときにも沈静の信仰に生きることはできない。我々は慌てふためく。そのような我々人間は常に不安の中に生きているのだ。沈静した生活などできるものではない。しかし、イエスは我々の舟の中にいてくださる。弟子たちの舟の中にいたように、イエスは我々の舟の中にもおられる。眠っているイエスがそこにおられるということだけで良いのだ。平安なときには、イエスを起こすことはないであろう。不安なとき、恐れるとき、イエスを起こすことができる。イエスがそこに眠っておられるのだから。我々のそばにはイエスが眠っておられる。我々が弱くとも、イエスは強い。我々が不安であろうと、イエスは沈静の信仰のうちに生きておられる。我々が思い上がっているときも、イエスはご自分の枕の上で静かに鎮まっておられる。

眠っているということは、何もしないように思えて、すべてを持っている。眠っているということは、何もできないようでいて、何でもできる。その人のうちで、神が働いておられるからである。イエスが眠っていることのうちにも、神の働きがあり、神がイエスを守っておられる。それゆえに、鎮まっていることができる。眠るということは、神が働いておられなければできないことなのである。

眠りは神が与え給う。我々が何もできない眠りの中で、神は働いておられる。イエスが眠っているということは、神が働いておられることに信頼しているということである。神は我々人間に眠りを与え給う。神から来たる眠りの中で、我々は神の働きを受け、はぐくまれ、成長する。我々が一切手を出せないようにして、神は働いてくださるのだ。この眠りを避けることは人間にはできない。たとえ、神を信じない人間でさえも、必ず眠る。神を必要とはしていないと思い込んでいる人間であろうとも、絶対に眠る。自分ですべてを行うことができると思い上がる人間であろうとも、眠りを制御することはできない。すべての人間に平等に与えられるのが眠りである。無防備に思える眠りは、神が働くために送り給うもの。我々人間が何もなし得ないようにして、働いてくださるために、神が送り給うもの。真実の信仰とはこの眠りのようなものである。神から送られ、眠るように信頼していることが真実の信仰である。イエスが眠っておられたように抗うことができないほどの神の働きを受けている状態が真実の信仰の状態である。

イエスは、弟子たちにこの信仰を教えるために眠っていたのであろうか。イエスは神から送られた眠りによって、眠っていたのだ。ただ、イエスは信頼の中で眠っておられたのである。信仰は眠りに似て、神が働き給う中で生きることである。そのような信仰は、我々人間のうちからは出てこない。我々人間が生み出すことができないものが沈静の信仰である。イエスの信仰である。イエスは、この信仰のうちに我々が生きることができるようにと、語りかけてくださる。「何故、臆病者なのか。まだ信仰を持たないのか」と。イエスがこのように叱責してくださることで、弟子たちは真実の信仰を教えられた。我々もまた、真実の信仰を持っていないことを教えられる。信仰そのものであるイエスと一つになることが、我々がキリスト者として生きることであり、我々が信仰を生きることなのである。

我々は信仰を持っていないと知らなければならない。信仰を持ち得ないと認めなければならない。信じることなどできないこのわたしがイエスと一つにされるとき、わたしは信仰を生きる者とされる。これが信仰の神秘であり、洗礼によって与えられるキリストとの一体化である。イエスがそばにおられて、我々の祈りに耳を傾けておられると、いつでもイエスに願い求める信仰。この信仰において、我々はイエスと一つとなって生きるのである。沈静の信仰そのものであるイエスが、我らの主。我らの信仰。我らの救い。このお方に祈り求めることができる幸いを感謝しよう。イエスは必ず応えてくださる。

祈ります。

Comments are closed.