「ありのまま」

2018年7月29日(聖霊降臨後第10主日)

マルコによる福音書5章21節~43節

 

「しかし、女は恐れて、震えて、彼女に生じたことを知ってしまって、やって来た。そして、彼女は彼の前にひれ伏した。そして、真理すべてを彼に言った。」と記されている。「ありのまま」と訳されている言葉は「真理」アレーテイアという言葉である。真理とは隠れなきことであり、生じたことのありのまますべてを隠さずにイエスに語ったということである。彼女は恐れたと言われているように、自らに生じたことを知って、恐れが生じたのである。それは神の出来事に出会った者の真実な反応である。そして彼女はイエスの前にひれ伏した。

ひれ伏すという言葉がこの箇所で二度使われている。12歳の少女の父親もイエスの前にひれ伏している。この言葉はピプトーという言葉で、投げ出すことを意味している。すべてを投げ出して、ひれ伏す。すべてをイエスに投げ出した二人の人物の行為が語られている。これも「ありのまま」の姿を投げ出すことである。彼らは自らの悩みも苦しみもすべて隠さずに、イエスの前に投げ出した。イエスにすべてを委ねたということである。ありのままの姿がイエスの前に投げ出されている。自分たちではどうにもできないことを前にして、彼らはイエスに自らのすべてをありのままに投げ出した。これが彼らの信仰である。

信仰とは信仰そのものである確かなお方の前に恐れを持ってすべてを投げ出すことである。関根正雄が言うように、ヘブライ語の信仰という言葉は、アーメンと同根の言葉である。それは固いという意味で、信じるということは、神の言葉が語られるとその言葉のうちにすべてを投げ出して、身を堅くすることである。自らは不安定で、揺れ動く存在だということを認めて、固い、確かなお方のうちに身を堅くすることが信仰である。父親と長血の女はイエスの前にひれ伏し、イエスのうちに身を堅くしたのである。それは、ありのままにすべてを投げ出すことであり、ありのままであることができるのは確かなお方の前においてである。これを信仰と呼ぶのである。

さらに、父親の娘がイエスに起こされて、「少女はすぐに立ち上がり、歩き続けていた。なぜなら、彼女は十二歳だったからである」と言われていることもありのままを語っている。十二歳だから立ち上がり歩くのは当然だという意味である。十二歳の少女のありのままの姿が回復されたことを語っている言葉である。ありのままであるということは、神に造られたありのままの姿で生きるということである。長血の女が神に造られたありのままの姿に回復されたことも同じである。神に造られたままであることがありのままである真理なのである。

我々人間は、この真理から離れてしまった罪人である。体の病や心の病も真理から離れてしまった人間の状態を表している。病を負っている人ほど、自らが神に造られたありのままではないことを知っている。ありのままでなくなった自分自身をありのままに表していると言える。当時罪人と呼ばれた人たちもそうであろう。むしろ、義人だ、健康だと思っていた人たちの方がありのままに自らの窮状を表すことができなかったのである。病気だと思わない人の方が困った状態にあると言える。病気だと認識しているがゆえに、医者に行く。認識していないままに健康だと思い込んで、さらに悪くなる。父親も長血の女も自らの娘の病、自らの病を認識し、どうにも仕様がないことを認めて、すべてをイエスの前に投げ出した。これが罪の自覚であり、イエスの癒やしは罪の赦しである。長血の女が語った真理とは、自らの病の現実とそこから回復されて、神に造られたありのままの自分自身を生きることができるようになったことすべてであった。それは罪の自覚と赦しによる回復の出来事を語ることと同じであった。

我々人間が造られたままに生きていたならば、神の似姿のままであったであろう。しかし、我々人間の父祖アダムとエヴァの堕罪が、与えられた似姿を破壊してしまった。破壊された似姿の回復こそがイエスが癒やしを通して行ったことであり、神に造られたありのままの自分自身を生きることができるようにしてくださったことである。それゆえにイエスは長血の女に言う。「あなたの信仰があなたを救った」と。女の信仰とは、自らをイエスの前にすべてありのままに投げ出すことであった。すなわち、罪の自覚と罪の告白であり、赦しを乞う祈りのすべてが彼女の信仰なのである。それこそが真理である。隠れなく生きるとき、人間は神に造られたありのままに生きる者とされている。神の前に生きる者とされている。神の前から隠れたアダムとエヴァの罪を受け継いでいる我々が、神の前に隠れなく生きるように回復されること。これが、イエスが与え給う癒やし。イエスが語り給う福音。イエスが生きておられる福音。この福音のうちに身を堅くするとき、我々は救われる。

自らの罪を自覚しない者は他者に責任転嫁し、アダムとエヴァの堕罪の罪を生きてしまう。自らの罪を隠すとき、その人に真理はない。信仰もない。ありのままに、神の前に生きることはできない。回復されることもなく、自分を隠して、生きることになる。これが、我々人間が原罪に蝕まれた病の姿である。父親も娘もそして長血の女もその病を自覚し、イエスの前にすべてを投げ出した。誰もが触れることを避けてきた病の人にイエスは触れた。長血の女は隠れて触れたことを、イエスにありのままに話した。この姿こそが、神に造られたありのままの自分自身を回復された姿なのである。

イエスが「あなたの信仰」と言っている長血の女の信仰とは、回復された姿である。彼女が信じているというよりも、信仰の中に身を堅くしている姿である。その信仰はイエス・キリストそのものである。イエスの前にありのままをさらけ出した女は、イエスというお方の確かさの中にすべてを委ねている。このお方がわたしを排除することはないと信頼している。このお方にお話しすれば、すべてを受け入れ、守ってくださると信頼している。これが彼女に与えられた信仰である。

十二歳の少女もありのままに生きることを回復された。自分で立ち上がり、歩き続けていた。少女も自分を生きることを回復された。十二歳であることを回復された。十二歳であるままに生きる者とされた。それ以上でも以下でもない。少女は十二歳である自分をありのままに生きるのである。神の前にありのままの自分で生きる。十二歳の自分を回復されて生きる。信仰を与えられているということは幸いなのである。肩肘張る必要はない。あなたはあなたなのだ。神が造り給うたあなたであることができるのだ。罪深い自分自身を神の前に投げ出して生きる。そのとき、あなたはありのままの自分自身を回復され、神に助けを求めて生きることが可能となる。神の内に身を堅くして生きることが可能となる。信仰を持って生きるとはこのような事態である。

イエスもご自分から神の可能とする力が出ていったことを体に感じた。神の可能とする力デュナミスが出て行ったのは、イエスが神の可能とする力が出ていくように生きていたということであり、神の可能とする力の働きを妨げないということである。自分でコントロールしないということである。このイエスのお姿こそが真理の姿である。神の可能とする力は相応しいところへと出ていく。イエスを通して出て行く。イエスがありのままで生きておられるので出て行く。長血の女と少女に起こった癒やしの出来事は、神の可能とする力が起こした出来事であった。その力を素直にありのままに受け取る信仰において生じた出来事であった。イエスはこの力に従って生きておられる。神の可能とする力がイエスを生かし、復活の出来事をも起こし給うたのだ。

我々の救いのために十字架に架かり給うたイエスは真理そのもの、信仰そのもの。ありのままの姿であの十字架の上に生きておられる。神の可能とする力によって生きておられる。あなたに与えられるイエスの体と血はこの力のうちに生きることを可能としてくださる神の賜物、神の憐れみ。あなたは神に造られた者である。

祈ります。

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