「父の掟」

2018年8月5日(平和主日)

ヨハネによる福音書15章6節~9節

 

「もし、あなたがたがわたしの掟たちを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちに留まっている。ちょうどわたしが、わたしの父の掟たちを守って、彼の愛のうちに留まっているように」とイエスは弟子たちに言う。弟子たちがイエスの愛のうちに留まるということは、イエスが父の愛のうちに留まることに根拠を持っている。イエスが父の掟を守っていることが、弟子たちがイエスの掟を守る根拠である。父の掟は父の愛であり、父の掟を守ることは父の愛のうちに留まることだとイエスは言う。このイエスと同じように、弟子たちがイエスの掟を守ることが生じると言う。

イエスが父の掟たちを守っていることが我々人間の生の根拠である。イエスが父の掟たちを守る力はイエスご自身にある。しかし、弟子たちがイエスの掟を守る力は彼らにはない。イエスの愛のうちに留まることによって、彼らにはイエスの留まる力が働き、イエスの父への従順と同じ生が彼らに生じるとイエスは言うのである。弟子たちに掟を守ることを求めるイエスの意志がイエスの愛のうちにある。その愛のうちに留まるならば、弟子たちはイエスの掟を守るように生きる者とされる。父の掟がイエスの愛の源であり、父の掟は人間がイエスに信頼し、父に従って生きる根源であり目標である。父の掟は初めであり終わり、アルファでありオメガ。それは、父の与え給うた十戒。互いに愛し合うイエスの掟もそのうちに含まれている。十戒を与え給うた父なる神の愛がすべてを包んでいる。十戒を与えた父なる神の愛は十戒を守るようにさせる神の恵みである。

我々人間が十戒を守ることができると思い込むことによって、我々は神の愛の中に留まることができなくなった。十戒は我々人間が守り得ない父の掟なのである。守り得ないことを知るようにと与えられた掟なのである。我々人間は自分たちが作った法律と同じように、守り得るものを神が与えたと思ってしまう。法律を守らない者がいるとしても、法律は人間が守り得るものである。それゆえに、罰則規定も設けられている。父の掟は、外観は人間の法律に似ているが、人間が自分たちの守り得るものとして定めたものではない。父の意志として定められ、人間に与えられたものである。人間が守るようにと与えられたものである。守らなかったからと言って、罰則規定があるわけではない。守り得ないとしても父は愛しておられる。守らないならば、自ら父の愛の外に出て行くだけである。父が追い出すわけではない。人間が自ら出て行く。自らのうちに住む原罪に促されて、出て行くだけである。そのような人間は、自らが父の掟を守り得ると思い上がっているがゆえに、父の愛のうちに留まることがないのである。父の愛のうちに留まっているならば必然的に父の掟を守るようにされているとイエスは言うのだ。掟を守れば、愛のうちに留まっているのだというイエスの言明が指し示しているのは、人間の守る力ではなく、神の愛の力である。神の守らせる力である。神の意志の力である。

神の意志が義しいことを認め、自らの意志が義しくないことを認めるとき、神の愛にすがるしかない自分を見出す。そして、神に祈る。神に祈るとき、神の意志がその人に祈る力を与えたのである。神の意志である十戒を守る力を与え給えと祈る者は、神の意志が義しいことを認め、自らの意志は正しくないことを認めている。それゆえに、神の愛が充ち満ちている神の意志に自らを委ねる。そして、神の愛のうちに留まっている。

自らに力があり、守り得ると思い上がる存在は、神に敵対している。それゆえに、神の意志に従うことはない。神の意志に敵対した自分の意志に従っている。いや、悪魔の意志に従っている。悪魔の支配に服している。このような自分自身を認めることは、自分を捨てることであり、自分の十字架を取ることである。自分を捨てることによって、我々は神の意志の中に入ることができる。自分を捨てていない存在は、神の意志と敵対した自分の意志に従って生きている。それゆえに、どんなに善行を行ってもなお、神の意志を実現することはない。これがこの世の法律と違う点である。

この世の法律は、自分たちが互いに悪を働かないようにと定められたものである。世界を秩序づけるために人間同士が定めたものである。父の掟は、父が定めたものである。人間たちが父なる神の意志に従って生きるようにと父が定め、与え給うたものである。父の掟には人間は一切関わっていない。人間の意志も関わっていない。父なる神の意志だけが父の掟を造ったのだ。父の意志に込められた父の愛が父の掟を造った。イエスはこの父の意志に従い、父の意志の中に自ら留まっておられる。このイエスと同じように生きるためには、イエスの愛のうちに留まることが必要なのである。

イエスの愛のうちに留まるならば、我々人間は実をもたらすことができるとぶどうの木のたとえでイエスは語っておられた。それは、互いに愛する愛を実現することができるという意味である。真実なるぶどうの木であるイエスのうちに留まっているならば、真実なる実をもたらす枝となるということである。枝が実をもたらすのではない。ぶどうの木が実をもたらすのである。イエスの愛のうちに留まるということは、ぶどうの木につながっている枝として生きるということである。このように生きる者は、イエスの愛のうちに留まっていることで実をもたらすことができると知っている。イエスという真実なるぶどうの木を与え、幹に留まっているようにしてくださった父なる神の愛が実をもたらさせる。そのとき、イエスの喜びは枝を通して広がり、枝自身の喜びとして現れる。枝自身は、自ら実をもたらすことができないにも関わらず、ぶどうの木であるイエスが実をもたらす枝としてくださったからである。これが弟子たちの喜びであり、我々キリスト者の喜びである。

自らが可能なことを為したとしても我々に喜びはない。不可能なことを為したとき喜びがある。不可能であることを為させてくださったお方に感謝する。それが互いに愛することを喜びとすることであり、互いに愛するように造られたことを共に喜ぶことである。そして、共に神に感謝する。そのとき、我々は競い合い、争うことはない。争い、競い合うよりも、助け合うことが生じる。傷つけ合うよりも受け入れ合い、癒やし合うことが生じる。殺害ではなく、生かし合うことが生じる。愛は他者が生きることを喜ぶ。神の愛は生かす愛である。その愛のうちに留まっている者は互いに生かすことを求める。互いに生きることができるように支え合い、助け合う。他者が滅びることを望まない。このような愛は我々人間が持ち得ない愛であり、神の愛の働きに従って生じる神の御業である。我々人間が為し得ないことを為させ給うのは、神の愛、父の愛、父の掟、神の意志。我々人間の意志ではない。しかしまた、神の意志は我々人間の意志を喚起し、我々人間は神の意志に従うことを喜びとする意志を起こされる。それゆえに、喜んで神に従い、神の意志を実現するように働く。ぶどうの枝がぶどうの木に相応しい実をもたらすと同じように。

真実の愛は神の平和である。神の愛は平和そのものである。如何なることにも動かされることなく、如何なることも受け入れ、如何なる敵対にも揺るがない。そのお方が我々人間に与え給う平和がキリストの十字架である。我々人間の罪を明らかにするキリストの十字架が平和である。神が我々人間に差し出し給うた和解の御手である。罪深きあなたがたを救いたいと差し出してくださった神の御手。それがキリストの十字架である。あなたがたに生きて欲しいのだと差し出してくださった命の御手、キリストの十字架を仰ぎ、イエスの愛のうちに留まる者でありますように。

キリストの体と血はイエスの愛のしるし、父なる神の愛によって与えられる神の力。父の掟を守る力。父なる神の愛に与り、イエスの愛のうちに生きて行こう。神の意志を守り得ないあなたを愛し、守る力を与え給うキリストがあなたのうちに生きてくださる。

祈ります。

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