「権威に従う」

2018年8月12日(聖霊降臨後第12主日)

マルコによる福音書6章6節b~13節

 

「そして、彼は与え続けていた、彼らに、汚れた霊への権威を」と記されている。さらに、彼ら弟子たちが受け入れられないときには「足の下の塵を払い落とす」ようにとイエスは命じた。それは「彼らへの証しに向けて」のことだと言われている。弟子たちが二人一組で遣わされたのは「権威に従う」こととしての派遣であった。その権威はイエスが与えた権威である。

権威というものは従うことを求める。従わないならばその人に権威はない。権威というものは、与えられた者が認可されていることを保証するものである。認可された者を受け入れるように求めるものでもある。弟子たちを受け入れない場合、受け入れない人たちを彼らが裁いてはならない。裁くのは派遣したお方である。それゆえに、足の下の塵を払い落とす行為は、彼らが受け入れてくれない人たちを呪わないためだと言える。それが「証し」だと言われているが、それは神にすべてを委ねたという証しである。弟子たちが彼らを裁くのではなく、神が裁くのだということを証しするために、彼らは足の下の塵を払い落とすのだ。関わりを断つということでもあるが、恨みを抱かないということである。すべての責任は派遣したお方が引き受けるのだから。

このような権威を与えられた弟子たちは、自分たちの働きを誇ってはならない。汚れた霊たちが弟子たちに従うとすれば、汚れた霊たちがイエスの権威を認めているということである。汚れた霊たちが認めているにも関わらず、彼らが赴いた町や村の人たちが彼らを受け入れないとすれば、汚れた霊よりも頑なだということになる。そのような存在のことをいつまでも心に抱えていることなく、塵のように払い落として、次なるところへと行けというイエスの指示なのである。弟子たちが権威に従うということはそのようなことである。

弟子たちを派遣したイエスの権威は汚れた霊たちへの権威だから、その権威を認めず、従わないとすれば、汚れた霊よりも物わかりが悪いことになる。そのような人たちにいつまでも関わっていないようにとイエスは勧めた。それは、弟子たちが権威を自分のものとしないためでもあった。もし、彼らが受け入れない相手にイエスの権威を振りかざして、無理矢理従わせようとするならば、弟子たちは権威を自分のものとしてしまうことになる。なぜなら、従わせようとする心は自らの権威を認めさせようとすることだからである。自らに権威があると認めさせたいがために強引に従わせようとするとき、弟子たちはイエスの権威を認めないことになるのだ。そして、自らイエスの権威の外に出ることになる。そうなってしまっては、派遣したイエスの心を無にしてしまうことになる。真実なる権威の下で生きることができなくなる。そうなってしまっては元も子もない。それゆえに、イエスは彼らに勧めるのだ、足の下の塵を払い落とすようにと。彼らが権威に従うためである。

我々キリスト者はイエスの権威の下に生きる存在である。イエスの権威を振りかざして他者を従わせるのではなく、自らがイエスの権威に服する。それがキリスト者である。最終的には派遣したお方にすべてを委ねること。それがキリストのものとして生きるということである。

それゆえに、イエスは何も持つなとも言う。我々が自分の持っているものに支配されてしまうことをイエスはご存知なのである。自分で持っているがゆえに大丈夫だと思う。自分で計画したのでうまく行くと思う。それが拒絶され、頓挫するならば、誰かの所為にしたくなる。拒絶した人を責めたくなる。頓挫させた人に責任を押しつけたくなる。しかし、受け入れる人が受け入れ、受け入れない人が受け入れないだけなのだ。受け入れられたならば感謝し、拒絶されたならば受け入れ、足の下の塵を払い落とす。それだけが権威に従う者の在り方である。わたしに権威があるわけではない。派遣し給うたお方が権威をもって、わたしに許可してくださっただけなのだ。それが派遣された者が生きるべき生き方である。すべてのキリスト者はイエスの権威に従う存在なのである。自分の力を誇示するのではない。自分の力に頼るのでもない。自分の力を捨てるのだ。キリストに従うということは、キリストの権威に従うことである。キリストの権威がわたしを支配しておられると信頼することである。わたしには力はないが、キリストに力があるとキリストのうちに身を堅くする信仰に生きることである。

我々人間は、誰であろうとも、自分で力を持っていたいと思う。それが我々の罪の根源なのだ。アダムとエヴァは、神のようになることを望んだがために、罪に取り込まれてしまった。ただ神に信頼していれば良かったのに、自分が神のようになることを求めてしまった。いや、蛇が彼らを促し、彼らは自分が権威を持つことを望むように誘われた。確かに、彼らは蛇に誘われたとは言え、自分自身で権威を持つことを選択したのだ。それが罪を選択した原罪なのである。それゆえに、我々原罪を受け継いでいる者たちは、常に自分で権威を持ちたいと望み、簡単に罪の支配に服してしまう。それが原罪の働きなのである。そのようになるとき、我々はイエスの権威に従うことができなくなる。自分ではイエスに従っていると言いふらし、従っているかのように思い込んでいるが、実は自分の権威を誇示し、自分の力を行使しようとしている。我々人間は洗礼を受けたキリスト者であろうとも、自分の信仰を誇示し、自分の信仰の力を示したいと望む。実は、それは信仰ではないのだが。

信仰とは、自らに力が無いことを認めて、神の前にひれ伏すことである。そのとき、神の可能とする力がわたしを支配し、神の可能とする力が働く。それはわたしの力ではない。わたしの権威でもない。わたしの持っている信仰の力でもない。「信仰はわれわれのうちに働きたもう神の御業であり、ヨハネ伝福音書第一章にあるようにわれわれをかえて新しく神から生まれさせ、古いアダムを殺し、心も精神も念いもすべての力も、われわれをまったく別人となし、更に聖霊をも伴いきたらしめるのである」。マルティン・ルターはローマ書序文で信仰についてこのように述べている。信仰とは確かに力あるものである。神の御業であるがゆえに力あるものである。この弁えがないキリスト者はキリスト者ではなく、自分信者である。自分信者は悪魔に唆されている。自分信者は信仰を持っている自分を誇る。キリスト者は神の前で何者でもない自分を告白する。何の力もないこのわたしを召して、キリストのものとしてくださった神に感謝する。力なく弱き自分をありのままに現す。そのようなわたしを受け入れ給うたお方を受け入れる。それゆえに、キリスト者は、自分を捨て、自分の十字架を取って、キリストが歩まれた道を進み行く。キリストが先立ち給うていると信頼して、キリストの権威に従う。キリストに従うということは、キリストと同じように拒絶されることを受け入れることである。十字架と同じように殺されてもなお神に信頼することである。十字架を担っても誇らないことである。神の権威、キリストの権威を与えられている者として、謙虚になすべき務めをなす。そして、神に感謝する。悪霊に支配されている人たちが解放されるために仕えること。病の人たちが癒やされるために奉仕すること。弱っている人たちが神に信頼して立ち上がるように励ますこと。わたしに従うようにさせるのではなく、神に従うように宣教すること。弟子たちが命じられたのは、そのような働きである。

我々キリスト者は、この弟子たちと同じように召されている。派遣されている。この世の中へと派遣されている。それぞれに与えられた場所で、他者のいのちの回復のために祈り、支え、励ますために、我々は召されている。キリスト者として召されている。召したお方が権威を持っておられる。キリストの権威に従うならば、不可能も可能となる。如何なるときも絶望することはない。時が来たることを信じて、今を生きる。あなたはこの信仰のうちに入れられている。キリストの権威に従い、すべてを委ねて、与えられた務めに励んで行こう。

祈ります。

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