「休息と満たし」

2018年8月19日(聖霊降臨後第13主日)

マルコによる福音書6章30節~44節

 

「あなたがたは少し休みなさい」とイエスは弟子たちに言った。にも関わらず、向こう岸で群衆がやって来ると弟子たちの休みもなく、群衆を教えられた。それは彼らを憐れんだからだとマルコは語っている。休みを与えようとされたイエスが群衆の求めに応じることで、弟子たちの休みはなくなってしまったようである。そのあとの五千人の給食において、弟子たちはさらに働くことを求められる。イエスが「あなたがたが彼らに食べることを与えなさい」とおっしゃったからである。イエスは弟子たちの休みをどう考えておられるのだろうか。働きの中で彼らには休みがあるということであろうか。もちろん、五千人に食事を与えることで、弟子たちも食べることができた。弟子たちに「少し休みなさい」と言って送り出した理由は「食べるための良いカイロスを持てなかった」からである。つまり、神が食べるための良き時を与え給うために、イエスは弟子たち送り出したのである。結果的には、弟子たちが五千人に食事を与えることにおいて、彼らは休息を与えられたと言える。イエスが考えておられた食べるための休息を。

この出来事の最後には「彼らは食べた。そして、満たされた」と記されている。この言葉が語っているのは、五千人が満たされたことを語っているが、また弟子たちも満たされたと語っているのである。弟子たちは五千人にパンを買いに行かせるようにしようと考え、自分たちもその間にパンを食べて休めると思ったのであろう。ところが、イエスはどうせ食べるのだから、「あなたがたが彼らに食べることを与えなさい」とおっしゃった。そして、弟子たちも群衆も食べて満たされた。イエスがおっしゃった休息とは満たされることだった。弟子たちも群衆も神によって満たされることで休みを与えられる。それは、単に身体的な満腹ということだけではなく、神がこのわたしに食べることを与え給い、満たしてくださるという出来事によって与えられる「満たし」である。この満たしに与った者にとっては、休息も体の休息というに留まらず、全人的休息となる。そのとき、人は真実に休息を味わうであろう。

しかし、弟子たちはその休息を味わっていながら、休息とは何かを知らないままである。続く箇所でそれは明らかになるが、彼らは神の満たしを満たしとして受け取っていないのである。それでも、彼らは神の満たしに与っている。この事実を見失うとき、人は満たされることを自分の見える次元、手にすることのできる次元、感覚的次元に貶めてしまう。神はそれ以上の善きものを満たしておられるのに、それが見えない。これが我々人間の罪に曇った目が見ること、罪に縛られた自己意志の結果なのである。

我々は自分が考える満たし、自分が認めうる満たし、自分が感じられる満たしを求めてしまう。そのとき、神秘的な神の満たしは人間的次元に貶められ、我々が判断し、把握し、扱うことができるものとしか考えられなくなる。こうして、我々は神の満たしを通り過ぎてしまうのである。イエスは通り過ぎてしまわないようにと、五千人の給食を弟子たちを通して与え給うた。弟子たちの教育のためでもある。もちろん、イエスが第一に考えておられたのは病に苦しむ病者たちとその家族や支援者たちである。その人たちがうちひしがれている姿を見て、「牧者を持たない羊のよう」だと憐れみ給うた。そして、彼らに多くの教えを説いた。

イエスは教えを説くことにおいて、彼らを満たし給うのは神であることを伝えたのである。その教えに従って、イエスは弟子たちに言う。「あなたがたが彼らに食べることを与えなさい」と。すべては神から与えられている。それを受け取りさえすれば良いのだ。与えられないのは受け取らないからである。イエスは、五つのパンと二匹の魚を取って、天を仰いで、神を褒め讃えた。つまり、求める祈りではなく、与えられていることを感謝する祈りを捧げたのである。それゆえに、与えられているものが与えられているように受け取られ、分配された。与えられているのだから分配できるのである。与えられていなければ分配はできない。イエスはすでに与えられているものを受け取って分配した。

神を褒め讃えるという言葉はギリシア語でユーロゲオーであり、祝福することである。神やイエスが人を祝福するときにも同じ言葉が使われる。神から人への場合は「祝福」と訳され、人から神への場合には「褒め讃える」や「讃美する」と訳される。同じ言葉がその方向によって違うのだが、結局同じ事柄だと言える。神の祝福の下にあることを受け取って、神に感謝することが神を褒め讃えることだからである。従って、イエスの讃美、褒め讃えは、すでに与えられているものを受け取って、神を褒め讃えたものなのである。そのとき、神の意志に従ってすべてはなっていった。一人ひとりが神によって満たされた。こうして、五千人の満たしが見えるようになったと言えるであろう。

五千人の満たしは、すでにあるものがあるものとして見えるようになった出来事である。それは弟子たちの休みにも言える。イエスが弟子たちに「少しあなたがたは休みなさい」とおっしゃった時点で、休ませようとのイエスの意志はすでにあった。それがこの世の中で見えるようになるのは、彼らが群衆に食べることを与えることによってであった。彼らは身体的には休みを与えられてはいない。しかし、彼ら自身の全人的な休みは与えられた。食べることも与えられた。食べることを与える弟子たちが与えることを通して自分たちも食べることを与えられた。与えられた食べることにおいて、休みを与えられた。すでにすべては満たされていると信頼するように導かれた。これが、五千人の給食という神の満たしの出来事が指し示していることである。

休むという言葉はアナパウオーというギリシア語で、アナ「新たに」「上から」という意味の強意の接頭辞が付いたパウオー「終わりにする」「静かにする」という言葉である。このパウオーは神が安息日を設定されたときにも使われている言葉カタパウオーにも含まれている。神はご自身が休むことを通して、安息日を造り給うた。安息日を守ることにおいて、我々は神の休みに満たされる。それはまた安息日を与え給うたお方を褒め讃え、受け取り、神の安息に入れられることである。この神への信頼において、我々は如何なるときにも神の休みに入れられると言える。従って、弟子たちが神への信頼に生きるときには、彼らは休みを与えられている。彼らが静かにしていることが起こる。自分を主張せず、神の御業のうちに身を堅くしている信仰において、彼らは休みを与えられている。さらに、満たしも与えられている。我々に欠けるものがなくなっている状態。これが神の休みであり、安息日であり、平安であり、真実なる休息なのである。

イエスは、弟子たちに「休みなさい」とおっしゃったが、彼らが神からの安息に与るのは神が与え給うものを受け取るときである。受け取ったものをイエスの意志に従って配るときである。そのとき彼らは神がすでに与え給うている安息、休息を受け取り、そのうちに生きている。群衆も同じように神の与え給う休息に与る。こうして、我々は働いているように休みに与り、休みに与っているように働くのである。

この休みはイエスがあの十字架の上から我々に供給してくださる神との平和、神の安息。我々に休息を与えるために十字架を負ってくださったイエスによって、我々は働くように休み、休むように働く世界を生きる者とされている。働くことも休むことも神の世界の中にあって、どちらも神が与え給うことだからである。神から来る休息と満たしは我々が如何なる状態にあろうとも与えられている。すでにそこにある。この事実に目覚めることが信仰である。十字架のイエスはこの世界を生きておられる。今日も与えられるキリストの体と血はこの世界を我々に開く神の糧。御国の鍵。あなたは如何なるときも満たされている。如何なることにおいても休みのうちにある。自由なる神の世界に生きる者は、何を行おうとも休みである。義務ではなく喜びである。あなたのために十字架を負い給うたお方から来たる休息と満たしを感謝していただこう。

祈ります。

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